≪メッセージの要旨≫  2016年  12月 4日   待降節第2主日礼拝


         聖書 : イザヤ書         11章  1〜10節
             ローマの信徒への手紙  15章  4〜13節
             マタイによる福音書     3章  1〜12節


         説教 : 『 心のずれを直す 』     高塚 郁男 牧師


(前回、教会のカレンダーと教会色について話しました。
   今日のテキストの内容とも関係しますので、もう一度教会色の話から説教に入ります。)

1.私が牧師になる頃は今の 「待降節」 を 「降臨節」 と呼び、
  「降臨節前第1主日」、「降臨節前第2主日」、「降臨節前第3主日」、「降臨節前第4主日」 と続き、
  「降誕日」 = イエス・キリストの誕生「イエスの降臨日」 となっていました。
  「降臨節」 とは主イエス・キリストが神から「降りて」来て、私たちに「臨まれた」ことを意味する言葉です。
  その4週間前を 「降臨節前」 として、信仰者がイエスの誕生を心から待ち望んでいることをはっきり表すために
  「降臨節前第1主日」 とか 「〜前第2主日」 として4週間待ち続け、
  救い主の誕生を期待と希望を持って待ち続ける季節として設定されました。
  「待つ」季節ですから 「待降節」 と変わったことは適切だと思います。
  同時に、先々週も言いましたが、この季節の色も変わってきました。
  「降臨節」 と呼ばれていたころは 「紫」 が教会色でしたが、最近は 「青」 に変わりつつあります。
  カトリック教会でも聖公会教会でもこの4週間の呼び名は 「降臨節」 が 「待降節」 に変わったのですが、
  典礼色は「紫」から「青」にはまだ徹底されず変更されていませんが、いずれ「青」に変わるでしょう。

3.聖壇や説教台に「紫」の色が使われたり、牧師が肩から掛けるストールが「紫」になったりすると、
  礼拝は普段にまして厳かになり、華やいだ雰囲気は教会から消えていきます。
  「紫」は典礼色(教会色)では大事な時に、
  例えば、主イエスの誕生とか蘇りの復活の直前に使われる色で、
  普段より一層強く、信仰者は自分の生活を振り返り、強く「悔い改め」を強いられます(今日の福音書のテキストとの関係)。
  ですから、私たちが神学校にいた頃は、「降臨節」や「受難節」には祝い事の結婚式は出来ませんでしたし、しませんでした。

4.主イエスがお生まれになる季節の呼び名が「降臨節」から「待降節」に変わり、
  色も「紫」から「青」に変わりつつあると言いましたが、
  主イエスがお生まれになるのを、今か今かと期待と希望を持って待つのですから、
  「待降節」と変わったのは至極当然なことと思います。
  これは呼び名を変えた信仰者の信仰の強い表れだと思います。
  「降臨節」にしろ「待降節」にしろ、ラテン語では「アドヴェント」と言います。
  「アド」とは「〜〜の方へ」という意味です。
  「ヴェント」とは「行く」とか「来る」と言う意味です。
  クリスマスの前の季節は 「わたしの方にやって来る」救い主を 「期待を込めて・希望を持って待つ」季節です。

5.私たちの信仰の偉大な先輩パウロは今日の与えられた第2のテキストで、
  「かつて書かれた事柄は、すべて私たちを教え導くためのものです」(ローマの信徒への手紙15章4節、295頁)と書いています。
  「かつて書かれた事柄」とは今私たちが旧約聖書と呼んでいる聖書のことです。
  その旧約聖書からパウロは「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けていることができる」と言っています。
  旧約聖書を神の言葉としてしっかりとらえ、そこから忍耐と慰めを学んだパウロは、
  旧約聖書の神の言葉によって希望を持って生き続け、キリスト教会最大の信仰者であり伝道者になりました。

6.彼は更に、「かつて書かれた事柄」をイザヤ書11章1節からの言葉を今日の第2のテキストとして引用します。
  その言葉とは、
  「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。
    異邦人は彼に望みをかける。
    希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、
    聖霊の力によって希望にみちあふれさせてくださるように」
 と言います。
  「エッサイ」とはダビデの父です。
  イザヤ書ではこの箇所を
  「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」
  と記されています。
  「エッサイの根」とはダビデ王朝を表し、「若枝」は救い主=イエス・キリストを指しますから、
  パウロが「かつて書かれた事柄」とは
  まさにこのイザヤ書11章1節からの旧約聖書の神の預言がそのままその通りになったとパウロは断言します。
  その通りです。
  この「若枝」の誕生がイエス・キリストの誕生です。
  そのイエスは「希望を源」であり、「忍耐と慰め」を教えてくれる「希望の源」です。

7.「希望の源」を待ち続けるのが私たちにとっては「待降節」です。
  「待降節」は「希望の季節」です。
  今日の福音書のテキストをもう一度読み直してみましょう。
  「希望」を得るには洗礼者ヨハネの言葉をしっかり聞かなければなりません。
  ヨハネは主イエス・キリストが現れるから「その道筋をまっすぐにせよ」(マタイによる福音書3章3節)と人々に呼びかけます。
  そのためには「悔い改め」(マタイ3:8、11)が必要だと強く迫ります。
  「罪」を「悔い改める」とは私たちと神との「ずれを直す」ことです。
  神は私たち人間が、神を信じるように創造されました。
  しかし、私たちは神を受け入れようとはしません。
  依然として、今に至っても、私たち人間は神を信じ、受け入れようとしません。
  神との間にずれを持っています。
  それを「直し、正すことが悔い改め」です。
  ずれを直しことができる時、私たちの方にやって来られる 主=アドヴェント を受け入れることが出来ます。
  その時、苦しみ、悲しむ私たちは大きな希望を見出すことが出来ます。
  アドヴェントは私たちが神とのずれを直す最も良い季節です。
  希望の源である主イエス・キリストが今、私たちの方にやって来ます。
  これ程大きな希望はありません。
  神とのずれをなくしましょう。

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