≪メッセージの要旨≫ 2016年 4月 3日 復活後第1主日礼拝
説教 : 『 目覚めた人 』 説教 : 高塚 郁男 牧師
聖書 : 使徒言行録 5章 12〜32節
ヨハネの黙示録 1章 4〜18節
ルカによる福音書 24章 13〜35節
復活がなければ、聖書は書かれなかったと思う。またイースターのお祝いもなかった。
聖書の記述を多くしたパウロは、コリントの信徒への手紙T・15章3,4節で、
「私が最も大切にしたことは、
キリストが死んだこと、よみがえったこと、復活したこと、
これが私が最も大事なこととしてあなたがたに伝えることである。」 と語っている。
イエスさまが十字架につけられ、弱々しく命を失い、葬られ、よみがえり、人々に出会った、
この復活の大切なできごとは、今までずっと続き、最も大きなできごとであったと思う。
1.イエスキリストという方はとはどういう方であるか、
2.復活のイエスに出会った私たちがどういうふうに生きるか、
その二つについて聖書に則して一緒に考えたい。
1.
イエスさまが復活したあと、エルサレムからエマオに向かって
イエスに起こったいっさいのことについて話し歩いている2人の人に姿をあらわされた。
イエスご自身が近づいて一緒に歩き始めたのだ。
この二人は12弟子とは違い、イエスの周りで群衆となって従っていた者たちと思われる。
自分たちが頼り切っていたイエスに起こったことが理解できなかった。
ヨハネによる福音書15章16節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。私があなたがたを選んだのだ。」
イエスさまの方から、必要な方には自ら近づいてきてくださることが聖書にもよく記されている。
イエスがわたしを生かし、導き、苦しみの中に入ってきて祈ることができるようにしてくださる。
そのことに気づくことが信仰の本質に近づくことです。
ルカによる福音書24章13節〜
「二人の目が遮られていた。 そのことがイエスを理解しなかった。
イエスはのぞみを抱く方である。 そのことを弟子は理解できなかった。
ああ、もの分かりが悪く、こころが鈍く、預言者の言うことを理解しない。」
信仰とは、イエスさまが私たちのところに来てくれることが分かったときにいろいろなことが理解できるようになるものです。
2.
エマオは二人の郷里でもあるのだろう。
宿を進められ、イエスさまはそのまま一緒に屋内に入って行く。
食事の席でパンを裂いてその弟子たちに渡したそのしぐさを見て
生前の、あのイエスさまの姿であることに気づくのである。
目が開かれ、心が開け、もう一度、今来た道を戻る「目覚めた人」の行動がその後に記されている。
もう一度この人に従っていこう、という道を進むのです。
洗礼を受け、教会生活を送り、
聖書のメッセージを一度は理解したつもりになっても、何かあると教会を離れるかもしれない。
イエスさまがパンを裂いた時が、もと来た道を帰って行く「目覚めた人」となる瞬間です。
私自身も、若いころから病気をくり返しているがいまだ生かされている。
倒れても、病んでも、喜んで生きていくことができる。 感謝している。
生かされている、自分で生きているのではない、
イエスさまが、お前まだ仕事があるんではないの?と言ってくれていると思うのです。
イエスさまを知ったおかげで、むしろ喜んで生きていくことができる信仰の告白ができます。
信仰を持って強く歩んで行きましょう。