≪メッセージの要旨≫  2016年  6月 19日   聖霊降臨後第5主日礼拝


         聖書 : ルカによる福音書      7章 11〜24節

         説教 : 『 神の訪れ 』      高塚 郁男 牧師


 説教理解のために:

1.今日の説教のテキスト「ルカによる福音書」7章11節〜17節を理解するために、
     まず旧約聖書「列王記上」17章17節から24節の第1日課をしっかり読んで下さい。

2.二つのテキストには大変似た話が出ています。
  しかし注意して読むと、二つのテキストの間には違いがあります。
  旧約聖書のテキストは病気の息子が死んだ時、母親は預言者エリヤに向かって
  「神の人よ、あなたはわたしのどんなかかわりがあるのでしょうか。
    あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」 と言っています。
  一方、福音書のテキストでは一人息子を失った母親はあまりの悲しみのせいか何も言えませんが、
  イエスの方から彼女を 「見て、憐れに思い、もう泣かなくていい」 と言っています。
  旧約聖書の母親語り掛けていますが、
  福音書に登場する母親は失意のどん底で何も言えず涙するだけですが、イエスの方から言葉 を語り掛けています。
  まずここに注目してください。
  主なるイエス・キリストはいつも私たちに先駆けて声をかけてくれます。
  今日の説教のポイントの一つはここにあります。

3.説教の第2のポイントは、
  旧約聖書に登場する母親は息子が生き返ることが「神の」業として見ており、
  新約聖書の方は一人息子が生き返ったのを見て、人々はイエスをほめたたえのではなく、
  イエスを通して働く神の業として捉えています。
  ですから 「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して」(ルカ7:16) います。
  イエスが死人を復活させていますが、イエスが行う業、それは神の業なのです。
  それが今日のもう一つのポイントです。

説教:

1.イエスは今日も町から町へ、村から村へ移動しています。
 一人でも多くの人に会うためです。
 将来に生きる望みを失い、悩み、苦しむ人たちにみ手を差し伸べ、
 神の力を示し、生きる力を与え、神による救いを示すためにイエスは毎日歩き続けています。
 イエスの移動は旅をしているからではありません。
 弟子たちや大勢の群衆に神のことを教えるからです。
 神の救いを人々に示すためにイエスは毎日場所を変え、一人でも多くの人に会います。
 イエスの後を追いかける弟子たちも群衆たちも一生懸命イエスの後を追いかけます。
 イエスが語ることは何一つ聞き洩らさず聴き、イエスが行う奇跡をしっかり見届けるためです。
 私たちも彼らのように一生懸命イエスの後を追いかけ、イエスの言葉を一つ残らず聴きとりたいものです。
 そのためには聖書を読みましょう。

2.ある日、イエスはナインという町に入られます。
 やもめが一人息子を亡くした人がいたからです。
 町の人たちが必死に悲しむ彼女を慰めています。
 息子は既に「棺に入れられ、担ぎ出されるところでした(7:12)。
 イエスが来るのが少し遅かったような気がします。
 イエスはその光景を 「見て、憐れに思い、声をかけ、もう泣かなくてもよい」(7:13) と言われます。

3.イエスは苦しむ人、悩む人、悲しむ人を見て、いつも、このように近寄り、声をかけられます。
 そして彼らに触れられます。
 これがイエスの姿です。
 やもめは悲しみのあまり、イエスを見て声もかけることが出来ず、ただ涙を流しかできません。
 もう少し早くイエスが来て、息のある時に祈ってくれればと思います。
 しかし、一人息子を失ったやもめは助けて下さい″とも言えず、一切の望みを絶たれ、失意のどん底に落とされます。
 涙する以外どうすることもできません。私たちもそうです。
 あまりの悲しみに包まれると声でも出ません。
 出そうと思っても出ません。 涙がほとばしるだけです。

4.しかしイエスの出番はここからです。
 神の力は一切の望みが絶たれたところで発揮されます。
 イエスは 「棺に手を触れられ・・・、若者を、あなたに言う。 『起きなさい』 と言われた。
        すると、死人は起き上がってものを言い始めた」(7:15)。
 多くの言葉は必要ありません。
 慰めの言葉は一言で良いのです。
 それが本当に心からでる言葉であるなら。
 心から出る言葉とは、悲しむ人が最も必要とする一言です。
 イエスは多くを語りません。
 ただ一言「起きなさい」。
 これで十分、いやこれしか言葉はありません。

5.死んだ一人息子が生き返ったのを見て
 「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、
 また、『神はその民を心にかけて下さった』と言った」(7:15)。

6.イエスがやもめの一人息子を生き返えすのを見て、
 本来なら人々はイエスの業に驚き、イエスをほめたため、イエスを賛美するのが普通です。
 しかし、この出来事は非常に重大なことを私たちに教えています。
 イエス・キリストが語る言葉はすべて神の言葉です。
 イエス・キリストがなす業はすべて神の業です。
 イエスを通して私たちは神の業を知ります。
 神がどういうお方かを知るのは、主イエス・キリストの語る言葉を通してであり、主イエス・キリストの業を通してです。
 イエス・キリストが自分の力を誇示するために奇跡を行うのではありません。
 イエスは自分が偉大であるのを知らせるために説教をしたのではありません。
 神の意志をイエスは代弁しています。
 イエスを通して神の言葉をイエスが語っているのです。
 私たちは三位一体と言い、イエスも神、聖霊も神であると言えるのはそのためです。

7.神の業を今日も私たちはイエスの言葉を通して触れることが出来ます。
 神のみ業は聖書に記されています。
 神は私たちを 「心にかけてくださいます」(7:16)。
 今日の福音書のテキストは本当に大切なことを私たちに教えてくれています。
 悲しみの中で涙しか出せない私たちにイエスの方から、ということは神の方から語り掛けてくれます。
 それが第1でした。
 「心にかけてくださいます」 とは 神 「が訪れる」 という意味です。
 イエスを通して神がやもめに訪れ、慰め、力を与えているという意味です。
 今日も、もし私たちが失意のどん底にいるとしても大丈夫です。
 聖書は今も私たちにイエスを遣わし、神の訪れを伝えています。
 立ち上がりましょう。
 起き上がりましょう。

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