≪メッセージの要旨≫ 2016年 7月 17日 聖霊降臨後第9主日礼拝
聖書 : ルカによる福音書 10章 25〜37節
説教 : 『 深い憐み 』 高塚 郁男 牧師
テキストの概略:
・律法の専門家が
「イエスを試そうと・・・、先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来ますか」(ルカ10:25)と尋ねました。
イエスは「律法には何と書いてあるか」と逆に質問します。
そして一つの話をします。
追いはぎに襲われ、半殺しにされた人が、道端に倒れたまた放置された。
倒れうずくまっている人の側を三人の人が通りかかった。
一人は祭司だった。
彼は「その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(ルカ10:31)。
もう一人はレビ人だった。
彼も「その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(ルカ10:32)。
残る人はサマリア人だった。
彼は「その人を見て憐れに思い、近寄って・・・介抱した」(ルカ10:33)。
イエスはこの話の最後に律法の専門家に
「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と質問すると、
律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えました。
イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)と言われました。
説教:
1.律法の専門家はイエスが話すことをいつも誰よりも真剣に聞いています。
しかし、それには魂胆がありました。
イエスが間違ったことを教えていないか「試す」ために注意深く聞いているのです。
イエスが話すことは神のみ心であり、多くの場合、旧約聖書に関係のあることが多く含まれています。
イエスが話す内容は、本来、律法の専門家が人々に教えることとあまり変わりません。
話す内容は律法の専門家が話す内容とあまり変わりないのですが、
イエスが解説し説明すると、律法の専門家とははまるで違っていました。
律法の専門家はいつも同じ教えであり、新鮮さがなく、聞いている人に感動も感銘も与えません。
しかし、イエスの話は聞いていて人をひきつけるし、
新鮮さがあり、感動的だし、身を前に突き出すように聞きたくなる話でした。
今日の『善いサマリア人』の話を見てもそのことが良く分かります。
2.律法の専門家の話には間違はありません。
ただ、彼らの教えは生きていません。
お題目のように繰り返し同じ内容で、日常生活にもあまり役に立ちませんし、
聞いていても真剣に聞こうとか、聞いて自分の生きる糧にしようと言う気にはなれません。
3.今日のテキストの出発点は
「永遠の命を得るためにはどうしたらいいか」との律法の専門家の質問から始まっています。
この質問は大変大きな問題ですし、誰もが知りたい内容です。
人は死んだらどうなるか知りたいものです。
今でもそうです。
私たちは永遠の命を得るとはどういうことか、何をすれば得られるのか聞きたいと思います。
イエスはこの質問を律法の専門家に逆に問い返します。
「あなたはどう思うか?」。
専門家は
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい。
また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)と答えます。
これは誰もが昔から律法の専門家から聞かされている答えです。
4.イエスはここで『善いサマリア人』の話をします。
追いはぎに襲われ半殺しにされた人が、道端に倒れたまた放置された。
倒れうずくまっている人の側を三人の人が通りかかった。
まずイエスは最初の通りかかった人は祭司だった言います。
祭司は律法の専門家です。
祭司は「その人を見ると、道の向こう側を通って行」きました(ルカ10:31)。
祭司は向こう側を通り、倒れている傷ついた人を見ています。
しかし、見て見ぬ振りをしたのでしょうか、わざわざ道の向こう側を通って去ってしまします。
二人目はレビ人でした。
彼も律法の専門家です。
彼もその人を見るとかかわりたくなかったのでしょうか、
彼も道の向こう側を通って、何もしないで通り過ぎてしまいます。
5.三人目の人はサマリア人でした。
サマリア人は律法の専門家ではありません。
律法の専門家たちと同じユダヤ人で外国人として差別されています。
旧約聖書の時代にサマリア人が外国から攻撃されたとき、
外国の人たちと結婚してしまったため、よそ者とレッテルを張られてしまいました。
ユダヤ人は現在でもそうですが純潔主義者で、
外国人と結婚することは別の国の人になってしまいます。
外国人と結婚することは神の律法を汚すことになります。
ですから律法の専門家たちは、
時代が経っても、どんなことがあってもサマリア人を許すことが出来ませんでした。
しかし、このよそ者とされたサマリア人が、半殺しにされて道端で倒れた人に近寄って・・・介抱したのです。
6.この話をしてイエスは最後に
「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と律法の専門家に質問します。
律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えます。
誰でも、私たちでもそのように答えるだろうと思います。
律法の専門家は正しい答えをするのですが、彼らはそのように生きていません。
それを知ってイエスは、
「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)と言います。
7.イエスの話は私たちに向けられています。
特に宗教家たちや人を指導するする人たちに語られています。
人には教えるが実際にはそのように生きていないのが私たちの反省です。
傷ついた人を見て、それがよそ者であろうが誰であろうが、
倒れた人がいるなら「憐れに思い」(ルカ10:33)倒れている人を助けるのが当然です。
私たちがしなければならないのは、その場にいたら、「深く憐れみ」手を差し出すことです。
私たちがすることは何も大きなことではありません。
今、目の前にいる助けの必要な人がいれば、その人に水を飲ませてあげることです。
包帯が必要な人には包帯を差し出すことです。
「深く憐れみ」介抱することです。
大きな仕事をする必要はありません。
今、自分がいる場所で、自分に必要なことをすることが「神を愛すること」です。
8.私は今保育園のことを一生懸命しています。
これをしなければならないと思って始めたのではありません。
以前いた教会に保育園があったから保育の仕事をしただけです。
今は待機児童とか、保育園がないので働くことも出来ず困っている母親は特に都会には大勢います。
もう少し私の働きは必要のようです。
このように目の前にあることをすることがイエスの教えに従うことだろうと思います。
皆さんも目の前にあることを一生懸命することが信仰の証になります。
頑張りましょう。