≪メッセージの要旨≫  2016年  7月 24日   聖霊降臨後第10主日礼拝


         聖書 : 創世記           18章  1〜14節
             コロサイの信徒への手紙  1章 21〜29節
             ルカによる福音書     10章 38〜42節


         説教 : 『 三角関係 』    秋久 潤 牧師(日本福音ルーテル小鹿・清水教会)

【旅人のもてなし】
本日読まれました旧約聖書と新約聖書に共通するモチーフは「旅人をもてなす」ことだと思います。
旧約の時代において、旅人をもてなすことは重要でした。
「旅人をもてなす」機会が与えられることは、「神さまから与えられた特権」だと考えられていたからです。
アブラハムは旅人をもてなすことによって、計らずとも主と出会い、年老いた自分とサラに子供が与えられるという、祝福の言葉をいただきました。

【「旅人のもてなし」と「祈り」に挟まれたマルタとマリアの物語】
福音書のマルタとマリアの物語においても、「旅人をもてなす」ことが事の発端となっています。
姉のマルタがイエス様ご一行を家に招き入れて、様々なもてなしをしています。
ここで聖書の物語の配列に注目してみますと、マルタとマリアの物語の前後は、次のような物語があります。
・善きサマリア人のたとえ
・マルタとマリア
・祈りについて(主の祈りと、真夜中に戸を叩く男の譬え)
マルタとマリアの物語の直前には、善きサマリア人の物語が語られます。
その際イエス様は律法学者に「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。
また、また、マルタとマリアの話の後には、祈りについての話しが出てきます。
主イエスが一人で祈っていると、弟子たちが祈りを教えてくださいと尋ねてくる。
そこで主の祈りが教えられ、さらに、真夜中に旅人をもてなすためのパンが足りないと訪問してくる男のたとえ話が語られています。
そして、単純化しすぎかもしれませんが、「善きサマリア人」のようにイエス様をもてなすマルタと、
イエス様の足もとに座ってその話に聞き入る黙想的な「祈る」マリアとが、
本日の福音書においては、イエス様を中心に、一つの場所に居合わせます。

【私たちの教会内におけるマルタとマリア】
マルタとマリアの話を聴くと、教会内の活動的な女性(あるいは男性でも)は、いささか引け目を感じる所があるのではないでしょうか。
『私は一生懸命やっているのに、イエス様はマリアばかりを可愛がる。
  確かに私はせわしないし、人に嫌みを言ったりするかわいげのない所もあるかもしれない。
  しかし、なぜマリアばかりにスポットライトが当てられ、自分の働きは省みられないのか。』
そのようなマルタ的なの悲しみを持つ人がおられるのではないかと思うのです。
しかしこの物語は、決して、活動的なマリアを批判し、静かにイエス様の許に佇むマリアが褒められている、ということだけではないのです。
マリアが選んだ「良い方」とは、マルタと比較してということではないのです。
マルタが奉仕のために立ち働いていることは、神さまから見て良いことです。
しかしマルタは、自分とマリアを比較し、なぜマリアが自分のようにしないのかと裁いてしまいます。
それをイエス様はおとがめになるのです。

【マリアが選んだ「良い方」とは】
少しややこしい話になりますが、イエス様は、マリアとマルタの比較ではない意味で、マリアが「良い方」を選んだと言われるのです。
では、その「良い方」とは何か。それは、詩編27編4節に書いてあります。お読みします。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。 (詩編27:4)


つまり、イエス様の家にいて、イエス様を仰ぎ望み、イエス様の家で朝を迎えること。
それがマリアの求めたことであり、イエス様はその求めを良しとされるのです。
ところで、私たちは、マルタとマリアのどちらに親近感を覚えるでしょうか? 
自分の置かれている状況が逼迫して思いわずらうことが多いと、マルタに親近感を覚えるのではないでしょうか? 
一方、自分の周りにマルタのような人が多いと、
自分が疲れているときに、なんだか周りからせっつかれているような気持ちになるのではないでしょうか。

【マルタとはどのような人か】
先週の日課である善きサマリア人においても、全身全霊で神さまと隣人を愛するようにといわれましたが、
もし実際に私たちの目の前に倒れている人がいるとしたら、助けられないこともあるのではないでしょうか。
善きサマリア人の譬えを、「このようにしなければならない」と読むと、非常に辛くなってきます。
なぜなら、できない自分への失望感が湧いたり、
あるいは、自分はやっているのになぜ他の人は無関心なのだという苛立ちにつながってくるからです。
 本日のマルタは、この「善きサマリア人」そのものではないかと思うのです。
旅をしているイエス様に話しかけて隣人となる。そして色々ともてなしをしている。
このようなマルタの姿や善きサマリア人の姿は、私たちを束縛するものではなく、励ますためのものではないかと思うのです。
イエス様ご自身、忙しく立ち働き、色々な人の隣人となるときもあれば、一人退いて、誰もいない場所で祈っているといもあります。
この両方が必要です。
もちろん、私たち一人一人は個性がありますから、自分はマルタのような人だという人もいれば、マリアのような人もいるかもしれません。
しかし、そのどちらの人も、それぞれの仕方で、神さまと出会う道が与えられているのです。
教会の中でも、家庭の中でも、私たちは自分がマルタとなったり、マリアとなることがあります。
そして、マリアのように見える隣人に苛立ってしまうことがあります。
主は、そのような苛立ちはおとがめになられますが、マルタのことを愛しているのです。
「マルタ、マルタ」と呼びかける主の声は、
マルタの性格、生き方、それが決して間違ったものではなく、
あなたも主に愛され、主によって与えられたその賜物を存分に活かして、主と隣人のために仕えなさいと励まされています。
しかし、この善きサマリア人の譬えは、私たちを縛るものなのではなく、励ましなのだと思います。
そしてその話は、マルタとマリアの話しを通して、私たちを、主の言葉を聴き、祈る事へと導いていくのです。
それが、本日は読まれませんが、来週以降の主の祈り、そして旅人をもてなすために、しつこく戸をたたけ、つまり祈りなさいということなのです。
そして祈るときに、神さまは必ず私たちに、何を為すべきかを教えてくださり、またそれをするための力と必要なものを与えてくださいます。

【教会の外の、マルタとマリア】
 本日、この説教において、教会のことだけをお話ししようかと思いました。
教会内で、頑張らないと教会が持たないと思い、一生懸命になる方がおられる。
一方、それで疲れ果てて、教会に来れなくなる方がおられる。
そのようなことを説教でお話ししようと思ったのです。
しかしこのマルタとマリアの物語を読んでいくうちに、
このマルタとマリアは、現代の若者の二つの側面を表しているのではないか、
そして若者の突破口となるのはイエス様ではないか、と思うようになりました。
 教会の外にいるマリアとは、どのような人か。
それはなんとなく疲れ切った、希望がない、かといって深い絶望にあるわけでもない、
「なんとなく」何もする気が起きないような状態におかれている人を表しているのではないかと思います。
 若者、と一括りにしてはいけないかもしれませんが、いったい何を目指して生きているのか本人も周りもよく分からない、という人がおられます。自分の内面的な世界に引きこもっており、外のことには興味が湧かない。
その若者自身も、内心「なぜわたしは本来やらなきゃいけないことには熱中できないのに、関係のないことにはこんなにのめり込めるのかな。
これでいいのかな」という、漠然とした焦燥感を抱えているのではないかと思います。
 教会が、若者と接点を持ちたいと思う。
しかし、若者が何を考えているのか分からない。
若者も、教会に別に何も求めていない。
お互いに、何も接点がない。
しかしマリアは、イエスが目の前に来られると、その話を聴くのです。
 もし教会にいる私たちが、現代の若者を「何を考えているのか分からない内向きな人たち」と見るのであれば、
そこにはマルタとマリアの間にある溝と同じものが、教会と若者の間にあるような気がします。
そして障壁を越えていくのは、イエス様ご自身ではないかと思うのです。

【マルタとマリアは、イエス様の二つの側面】
 イエス様ご自身、マリアと同じような一面を持っていました。
一人で祈りに没頭していくという、黙想的な側面です。
そして、祈りは適切な自己批判と、これから何を自分はすべきかというビジョンを見出していくことです。
 このようなマリアの姿は、マルタから見ると、非生産的で、ただ時間を無駄遣いしているように見えることでしょう。
そして社会的な、人の目から見れば、マリアよりもマルタの方が尊重されます。
しかしイエス様は、マリアから良いものを取り上げてはいけないといわれます。
そしてマルタの方にも、「マルタ、マルタ」と、やさしく語りかけておられます。マリアもマルタも、イエス様にとって大切な側面なのです。

【イエス様において、マルタ的な生き方とマリア的な生き方が統合される】
 若者を見ていると、一方では引きこもり、一方ではデモなどに出かけて行く。
この真逆に見えることが、実はみんなが目指していることは一つなのではないかと思うのです。
それは、「いま、自分は何のために生きているのか分からない。どうすれば現状を突破していけるのか」ということです。
その目標を目指して、一方では引きこもり、一方ではデモに出て行く。
この矛盾するかのように見える二つの態度が、イエス様によって一つに統合されていきます。
 このようなことを言いますと、私は何か危険な思想に若者が傾いていくことを奨励しているように聞こえるかも知れません。
引きこもって何か過激な思想を蓄え、それをデモで発散させよ、というような生き方に聞こえるかも知れません。
しかしそうではないのです。
イエス様は、決して過激派にはなりませんでした。
過激派とは、自分の思想を信奉者に受け付け、コマのように動かしていこうとすることです。
しかしイエス様は、何か自分の思想によって弟子たちを動かそうとしたのではなく、
「ご自身を与えること」によって、人々の閉塞感を突破しようとしたことです。

【私たちがどう生きるか】 
マルタが忙しく立ち働くのは、人として当然のことであって、その働きがなければ主イエスだって飢えてしまいます。
ここで主イエスが言おうとしているのは、何をしていようと、何を考えていようと、なくてはならぬものは何かということです。
『忙しければ忙しいほど祈る』という宗教改革者ルターの言葉があるが、なくてはならぬものは何かを示しています。
 私たちの目には、教会も社会も、様々な思い患いがあります。
旧約聖書のアブラハムのように、「もう自分には子供(将来)などあるはずはないではないか」と諦めに近い状態があるかもしれない。
しかし、神さまは、私たちのもとに訪れて、私たちに、この現状を突破する力を与えてくださるのです。
アブラハムもマルタも、神さまを客人としてもてなしましたが、
イエス様は、自分自身を命のパンとして私たちに差し出し、私たちをもてなしてくださいます。
このイエス様に出会うときに、私たちは祝福を受け、閉塞した状況から突破していく力が与えられます。
 私たちは、マルタかマリアかといった二者択一的な判断ではなく、
その中心におられるイエス様に耳を傾け、イエス様を信じることが求められています。
そうするときに、私たちの中にあるマルタ的な側面、マリア的な側面が、それぞれ主によって生かされ、
この閉塞した現状を突破していく力になると思います。
そしてそれは、教会の内と外といった溝や、世代間の差といったものを越えていく力になります。
大切なのはたった一つだけ、それは「イエス様を信じる」ということです。

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