≪メッセージの要旨≫ 2017年 1月 15日 主の洗礼日
聖書 : イザヤ書 42章 1〜 7節
マタイによる福音書 3章 13〜17節
説教 : 『 ほの暗い灯心を消すことなく 』 高塚 郁男 牧師
(今日は旧約聖書をテキストにします。イザヤ書42章です。)
1.この聖書の箇所は、決して見過ごしてはならない大切なみ言葉です。
「主の僕の召命」と副題がついています。
神様が「主の僕」を「召命」する預言です。
「主の僕」が誰なのか議論されることがありますが、
一読すると分かるように、これは「主イエス・キリスト」のことです。
「主の僕=イエス・キリストを」「神が選ぶ」預言です。
「主の僕の上にわたしの霊は置かれた」とあるように、この「選ばれた人の上に霊が」与えられ人は、
2節では、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこと」のない者として描かれています。
更に進むと、4節では彼自身は
「暗くなることも、傷つき果てることもない」し、「島々(人々を指します)は彼の教えを待ち望む」。
「主であるわたしは、・・・(彼を)諸国(これも島々と同じように人々のことです)の光として、
・・・(彼は)見えないことのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」(42:7)
と預言されています。
2.主の僕は救い主イエス・キリストのことです。
イザヤ書は39章までと、40章から55章までとは内容は異なり、
今日のテキストが含まれる40章からの後半は「第2イザヤ」と呼ばれ、紀元前540年頃書かれた預言です。
預言は神から頂いた言葉を人々に伝えるものです。
イエス・キリストが生まれる540年も前から救い主イエス・キリストの到来を預言し、
預言通りにイエス・キリストが救い主として現れ、
そのお方は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこと」がないと断言します。
神のご計画は私たち人間には理解できません。
私たちの考えで神のご計画を考えることなど全くでません。
ただ言えることは、神様の言葉は必ずその通り実現する、ということです。
神様は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことが」(42:3)ありません。
3.では、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことがない」(42:3)とは誰のことでしょうか。
紀元前540年頃と言えば、イスラエル民がバビロンに捕らわれ、外国に連れて行かれ、大変苦しかった頃です。
ですから、歴史的にはイスラエルの人々のことです。
しかし、同時に、私たちのことです。
私たちは折れかかった葦のようです。
多くの人たちは苦しみながら生きています。
どうすることも出来ないほど疲れ、助けもなく、前を向いて歩くこともままならず、倒れかかっています。
いや、倒れてしまいます。八方ふさがりです。四方八方ふさがれています。
右に行っても、左に向きを変えてもダメ、前も後ろもダメです。
しかし、上、天の道は開かれています。
主の僕=救い主イエス・キリストはそんな人に上から力を与えます。
葦は折れかかっています。
何かをしないと風に吹かれ、飛ばされ、折れてしまいます。
しかし、主の僕=救い主はそんな人を見捨てません。
助けてくれます。
崩れそうな私たちをもう一度目にとめられ、立たせてくれます。
「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から解放し、
闇に住む人をその牢獄から救い出すために主の僕は来られました。」
4.私は今一冊の本を手にしています。
題名は「消えかかった灯心」です。
まさに今日の旧約聖書のみ言葉と同じ題名です。
私が書いた本です。
私は1984年(昭和59年)に名古屋にいた頃東京教会に招かれ転任しました。
その頃は青年会も大勢おり、毎週青年会があり、青年だけの礼拝を開いたほどでした。
4月に東京教会に赴任しましたが、青年会を開くと、
“どうしてルーテル教会は自ら命を絶った人を顧みないのか”とか
“ルーテル教会は何故自殺した人を顧みないのか”と言うことが話題になっていました。
そのような話題で青年会が持ち切りでしたから、青年会の雰囲気が暗く感じました。
理由を聞くと、私が赴任する数か月前に青年会の一人が自殺をしたことが分かりました。
ルターは、命は神から頂いたもので、自ら命を絶つ者の葬儀は教会で行ってはならない、という言葉を残しています。
自殺は避けなければなりません。
しかし、私は、自殺をする人には、私たちには理解できない理由があるはずで、
それを理解しないで、ただ神から与えられた命だから、それを断つ人はキリスト者ではないと断定することには賛成できません。
しかも、その人は日曜日に礼拝に出席し、その後、青年会をし、
同じ青年会の何人かと山手線の駅まで行き、改札口に入り、他の青年仲間と別れ、再び改札口を出て、
教会の前を通り、団地の屋上から飛び降り自殺をしたそうです。
その団地には教会員もおり、屋上から落ちたものすごい音を聞いたそうです。
本来なら、教会が苦痛な思いを聞き、苦しみを和らげる働きをしているのに、どうして教会はその人を助けてあげられなかったのか、
しかも、自殺人を弔うことが出来ないのかと疑問を持ちました。
その人は、人から見れば許せないことをしたのかもしれませんが、
神から見れば、神のみ手の中で生き続け、
今なお「折れかかっているけど折れずに、消えかかった灯心だが決して消えない」、
なぜなら、救い主はそのような人に寄り添い、手を差し伸べ、起こし、力を与えるお方だからです。
そのような思いをもって、この本の出版をしました。
5.私たちは、本当に八方塞がりです。
自分では病める体、苦しむ心をどうすることも出来ません。
毎日をやっと生きています。
今日良くても、明日は分からない人生を送っています。
そういう人が多くいます。
折れかかっていますから、それをもう一度立ち上がらせてくれるお方が必要です。
消えかかった灯心のようにやっと生きていますから、
もう一度油を注ぎ、燃やして下さるお方が来てくれるように必死に主に祈らなければなりません。
一人ではどちらにも向かうことが出来ません。
四方八方が塞がれています。
ヨハネから
「イエスが洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた」(マタイ3:16)ように、
私たちに向かって天から開いてくれない限りどうすることもできません。
でも大丈夫です。
神はそういうあなたを救うために独り子イエス・キリストを与えてくれました。
父なる神はあなたの苦しみを救いたいためにイエス・キリストをこの世に送ってくれたのです。