≪メッセージの要旨≫  2017年  10月 1日   聖霊降臨後第17主日


        
聖書 : マタイによる福音書     18章 15〜20節

        
説教 :  『 一人も滅びないために 』   高塚 郁男 牧師



1.イエス・キリストにとって人が一人でも滅びるのは耐えがたいことです。
  イエスの願いは、罪の中で生きている人が、信仰者の忠告や諭を従順に受け入れなくても、
  何とか、そのような罪人が自分の罪を認め、神へ心を開くようになるために忍耐を持って待つことです。
  一人の人の忠告や諭を受け入れなければもう一人二人の証人を同伴させ説得させるようにとイエスは言います。
  それでも効き目がないなら、更に二人または三人の証人を連れて行き、心を開くまで待とう。
  それでも聞き入れない兄弟がいるなら、教会の言葉を聞くよう言おう。
  それでも聞き従わないなら、彼はもはや兄弟ではない。
  彼は異邦人や徴税人と見なされる。
  そのような人とは交際してはならないとイエスは言われます。


2.「すべてのことが、二人または三人の証人」(18:16)と言う言葉を使ったので、
  「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18:20)
  と言う言葉が出てきました。
  この言葉は伝統的に、教会とはどういう所かを定義的に表現する時に良く使います。
  教会は「二人三人がわたしの名によって集まるところ」です。
  教会はいかに多くの人を集めたかではありません。
  たとえ二人でも三人でも、それ程少数であっても、大事なのは「イエスの名によって集まっている」のが教会です。
  教会はイエス・キリストが二人三人集まっている中にいます。
  イエス・キリストがそこにいなければ、単なる集会であり、人の寄り集まりであり、教会とは別の団体に過ぎません。
  教会は数が問題ではありません。
  主がそこにいるかいないかで、教会なのかそうでないか異なります。


3.私は富士教会に一年半前に来た時、牧師もいないのによくやってるな、と強く感心しました。
  月の半分は皆さんが守り、たとえ私が後の半分を東京から来て補っているにしても、私の働きは説教するだけで、
  皆さんのケアも出来ないし、日曜日に初めて教会に来られた人たちのケアもしていません。
  今、日本では、カトリック教会にしてもプロテスタントの教会にしろ、私たちルーテル教会にしろ、無牧の教会がかなりあります。
  教会は、イエス・キリストの名によって二人でも三人でも集まるところに、主イエス・キリストもいて下さり、導いて下さいますから、
  今いる勢力で守っていること自体素晴らしいことだと思います。
  僅かであろうが、信徒の方々が力を合わせて守っている限り、主もそこにいて下さるのですから、これからも守って下さるように祈ります。


4.ただ守るだけでなく、牧師が与えられないこの時を「神の恵みの時」として前向きにとらえる最も良い時期と捉えることも大切です。
  主イエスは私たちに人生を後退させようとされるお方ではありません。
  どのような状態でも前向きに、肯定的に生きるように導いて下さいます。
  そのことを私たちも忘れないことです。
  数週間前に、「キリスト教は肯定する」という説教をしました。
  天地を創造され、最後に
  「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。 見よ、それは極めて良かった」(1:31)
  と言う言葉を引用しました。
  もともと神様はすべてのものを良いものとして造られ、否定的ではありません。
  キリスト教は「福音」を前面に出します。
  「福音」は良き知らせであり、決して人を引き落とすことはありません。
  「福音」を伝える教会は、苦しむ者・悩む者が安心して過ごせる場所です。
  望みを失っている人たちに「ここに来れば安心だ。安らぎが与える、生きる望みを与える」と言います。
  良き知らせを聞いた人にとって教会は安心出来る場所であり望みを与えてくれるところ、前向きに生きられる肯定的な場所です。


5.キリスト教書店で本をあさっていた時、
  「百万人の福音」10月号をぱらぱらとめくっていたら、「この町、この教会」と言う取材記事が目につきました。
  買って読んでみたら、富士教会のように無牧時代と同じような状況下のことが書かれていました。
  「教会は一時無牧状態となった。
     その期間は、まさしく訓練の時でした。
     みんなで協力して、学びながら教会を運営し、牧師の働きがこんなに多岐にわたるものかと知ったのも、その時ですと・・・さん。
     同じく役員の・・・さんも大変でしたが、神様が私たちと共にいて下さることを確認する機会でもありました、と振り返る。
     2014年に牧師を招聘後も無牧の期間に芽生えた自立意識は健在で、
     教会員が自主的、積極的に様々な委員会や働きに関わり、教会運営や伝道を模索している。
     特に現在の課題は地域に開かれた教会を目指し、
     教会オアシス講座に変更し地域の人々の関心が高そうなテーマで企画したり、音楽伝道も盛んで、
     チャペルコンサートや、歌声喫茶ならぬ歌声チャペルも年二回程実施、地域にも好評だという。
     (略)信徒らの生きた活動に、無牧を経験したことで、積極的に教会形成や運営責任をもつという信徒の意識が高い。
     それが、この教会の一番大事な部分」
  と取材した人は書いています。


6.牧師がいないことは残念なことかも知れません。
  しかし、その時を「恵みの時」として捉えるなら、そこに主が共にいて下さるのですから、望みがあります。
  光があります。
  ルーテル教会はなかなか歌声チャペルとか教会オアシス講座などの名前がつくような集会は出来ないかも知れません。
  しかし、二人または三人どころか十名以上の人がいるのですから、
  積極的に前を向いて、この教会に相応しいことをすれば、この教会にも恵みの時が与えられます。
  教会は使命を忘れてはなりません。
  それは人が一人でも滅びることがないように伝道をすることです。
  自分だけが救われていればそれで良いのではなく、一人も滅びることなく救われるために存在意義があります。
  その為にも祈り、力を合わせ、良き知らせ=福音を人々に知らせましょう。
  そこに主が共にいて下さいますから。

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