≪メッセージの要旨≫  2017年  10月 15日   聖霊降臨後第19主日



        
聖書 : マタイによる福音書     20章  1〜16節

        
説教 : 『 労働は神の恵み 』    高塚 郁男 牧師



1.今日の福音書のテキストを読むと、私たちが考える常識とは随分違った教えが語られています。
  内容は『ぶどう園の労働者のたとえ』ですから、実際そのようなことがあたかどうかは分かりませんが、
  「天の国」=イエスが教えてくれた神の教えは、このたとえで言われていることが実際起こる理想的なものです。
  今日は二つのことを考えます。
  一つは、このたとえを通して人間をどのように見るかと言うこと、二つ目は、職業についてです。
  人は色々な職業につきますが、私たちは働くこと、職業をどのように理解したら良いのか考えます。


2.早朝から夕方6時まで12時間働く人も、
  朝9時から午後6時まで契約した人も、12時から6時間=朝から働いている人の半分しか働かない人も、
  更には午後3時からわずか3時間しか働かない人も、最後には夕方5時から来て1時間しか働かない人も、
  働く時間はばらばらですが、賃金は一律皆同じ額しか支払われないとすると、
  長く働いた人たちは不公平だと言うのは当たり前です。
  12時間働く労働者も1時間しか働かない人も、
  しかも仕事の内容は全く同じなのに、賃金が働いた時間数に関係なく同じだとすれば文句が出るのも頷けます。
  しかし、聖書の教えではこのようなことが起こるのです。
  それどころか、賃金を払う時には僅か1時間しか働かない人から支払われ、一日中働いた人は一番最後に支払われます。
  私たちの常識ではありえないことです。
  神の国、聖書の教えは、いつもこのようなどんでん返しと言うか、私たちが考える常識がまったく通用しない形で示されることが多いです。
  今日の人が働くことに関しても、聖書の教えは私たちの基準と違った基準があることに気づきます。


3.神のみ心=天の国=聖書の教えは弱い人に焦点が当てられます。
  神が愛と言われる所以です。
  神のいつくしみが聖書の教えであり、
  主イエスがこの世で人々に示し、告げ知らせた教えは、弱者にとって嬉しい良い知らせ=福音になりました。
  神は愛に満ちていますから、弱者にとっては大きな福音です。
  ですからどの『福音書』にしても心も体も病み、社会から見放された人たち、生まれながら何らかの障害を持った人たち等々、
  社会的に弱い人たちを癒す記事が多く記されているのも、神の愛が聖書の中心だからです。
  その人たちに目を注ぐのがイエスの教えであり、「天の国」で起こる現実です。
  健康な人は、働きはいくらでもあります。
  体の弱い人は働きたくても働けません。
  聖書はそのような人に対して目を注ぎます。
  イエスの愛、いつくしみは、このように弱い人に対して向けられます。
  たった1時間しか働けない人が一番先に賃金をもらい、しかも一日中働いた人たちと人同じ賃金が支払われるのが、神の愛、
  弱者を忘れない聖書の教えです。


4.もう一つ、このたとえから学びたいことがあります。
  内容的にはテキストと直接関係ないことです。
  しかし、労働についての話ですので、職業についてクリスチャンはどのような理解をしたら良いか考えてみたいと思います。
  労働は神から与えられたものです。
  どの働きも尊いものです。
  どの仕事が優れているとか劣っていることはありません。
  どのような職種でも誰もが祝福するものです。


6.ルターは難行苦行をし、自分を苦しめることが神から救われる条件と考えていました。
  ですから修道院に入ってから誰よりも早く起き、誰よりも祈り、掃除し、日課をこなしました。
  しかし、どんなに努力し励んでも救われる思いがしません。
  彼は悩み続けます。
  難行苦行をしたり多くの善い行いをすることによっては救われないことに気づかせてくれたのは聖書そのものでした。
  聖書教授になった初期の頃、『詩編』に続き『ロマ書』や『ガラテヤ書』を講義している時に信仰の本質が何であるか知りました。
  そこから三つの「のみ」の原理を見つけます。
  第1は、私たちが寄って立つべき土台は聖書であり「聖書のみ」です。
  第2は、救われるのは私たちがどれ程善い業をしたかではなく、ただ信仰によって救われることで「信仰のみ」です。
  第3は「恵みのみ」です。
  生きているのも、自分で生きているのではなく、生かされているのであり、
  神の恵みによって生かされていることになり「恵みのみ」、という3つです。


7.今日の第2のテキスト『フィリピの信徒への手紙』の中に
  「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(1:21)
  と言うパウロの言葉があります。
  パウロにとっては生きるのも死ぬのも利益でありうれしいと言います。
  生きることが喜びであると言うのは理解出来ます。
  しかし、たとえ死んだとしても利益であり嬉しいことです、と言うことを理解し納得するのは難しいことです。
  パウロによれば、死ぬことは神が自分を取られたのだから喜んでいる、
  生きるのも死ぬのも、すべては神が与えてくれているのだから、何をするにしても、私たちに起こることは益であると言うことです。
  命は神が与えてくれるものですし、死さえも神が与えてくれるものと理解出来ることは素晴らしいことです。
  この信仰に到達したのはパウロだけではありません。
  ルターもそうでした。
  私たちもそうです。
  信仰者にとって生も死も神が与えてくれる「恵み」です。
  このことが分る信仰を私たちが持つ時、私たちには限りない喜びが湧き起こります。
  いや、この信仰を私たちが持つのではなく、この信仰さえ神から与えられた、と言える人にとっては死もまた利益であり喜びです。


8.労働、働き、職業も同じです。
  どのような職業も神が与えてくれた「恵み」です。
  ですから、どのような労働も尊ばれるべきものです。
  また喜びです。
  神が与えてくれたものですから神からの贈り物、贈与とも言えます。
  これはイエス・キリストが教え残してくれた遺産です。
  遺産は大事にしなければなりません。
  また体が弱く、一日働くことが出来なくても、神はそのような人を見放すことは決してありません。
  むしろそのような人を強く支えます。
  ですからたとえ一時間しか働けなくとも、あるいは病気になって働くことが出来なくても無念に思うことはありません。
  病に伏す人はそれを治すことに専心すれば良いのですから、伏すことも神が与えてくれた恵みの時です。
  伏して一日でも早く働けるように専念することが神から与えられた「恵み」に答える道です。
  労働も伏すことも、生きるのも死ぬのも神から与えられた恵みです。

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