≪メッセージの要旨≫ 2017年 11月 19日 聖霊降臨後第24主日
聖書 : マタイによる福音書 25章 1〜13節
説教 : 『 用意周到 』 高塚 郁男 牧師
1.何をするにも「用意周到」、準備万端、備えておくことは大切なことです。
いつ、何時、何が起こるか分かりません。
私たちの生活も明日はどうなるか分からないのですから、何事にも準備しておくことが充実して生きる道です。
誰もこのことは知っていますが実際はこれを実行するのは意外に難しいことです。
2.
1)ボーイスカウトは「備えよ常に」を標語にしており、心においても、体においても、技においても
用意周到であることを徹底的に身に付けて、自分自身を鍛え、人の為になるように訓練をしています。
2)1900年初め、ボーイスカウトの創始者ロバート・バーデン・パウエルは
青年の人格の発達には心だけでなく、市民性においても、肉体においても健全な成長が必要であることを唱え、
ボーイスカウト運動を始めました。
そのモットーが 「備えよ常に」 です。
この運動は世界の多くの人から迎え入れられ、かなり短期間の内に世界的に広がりました。
私が最初に赴任した広島教会にもボーイスカウトはありましたし、今隣接しているカトリック教会にもあります。
土曜日や日曜日に訓練をしたり山に出かけて行って心技体を高め鍛えています。
10歳から18歳の子どもたちの良い躾にもなっています。
3.
1)「備えよ常に」の教えは信仰においても同じです。
今日の福音書のテキスト「マタイによる福音書」25章は『十人のおとめのたとえ』で、
「そこで、天の国は次のように譬えられる」と言う言葉で始まっています。
「天の国」のことですので、このたとえは私たちの信仰を問題にしています。
信仰にも備えが必要であることを私たちに教えています。
2)花婿を迎えに出る10人のおとめがいました。
5人は愚かで5人は賢いおとめでした(2節)。
愚かなおとめと賢いおとめの違いが3〜4節に記されています。
10人のおとめは皆一様に「ともしび火」を持っていまが、愚かなおとめは「油の用意をしてい」ませんでした(3節)。
一方、賢いおとめは「ともし火」と一緒にまさかの時に備えて予備の油を「壺に入れて持って」いました(4節)。
おとめたちは全員「眠り込んでしまった」(5節)ところに花婿が来ます。
3)真夜中になって花婿の到来を知らせが響きます。
その声が聞こえた時におとめたちの間に愚かさと賢さの差がはっきりと現れます。
火が消えかかっているのを見た愚かなおとめは油を買いに外に出なければなりません。
賢いおとめたちはそのような時がくることを見込んで別の油を用意していました。
4)愚かなおとめが油を買いに外に出ている間に花婿が到着します。
「油の用意が出来ている」5人が婚い参加するために部屋の中に入ります。
すると戸は固く閉ざされます。
愚かなおとめが戻って来た時には戸は固く閉ざされ、中には入れません。
愚かなおとめたちは「ご主人様、ご主人様」(11節)と繰り返しますが、主人は「わたしはお前たちを知らない」(12節)と突き放します。
冷たい感じがします。
5)当時の婚宴がどういうものか知る人には、戸がどうして閉められたか不思議な思いがします。
当時の婚宴は誰もが自由に参加出来るものでした。
今でもそのような誰でもいつでも婚礼に参加出来る方法をとっている国があります。
私も以前、それに似た婚宴に招かれたことがあります。
その婚宴と言うのは、何日間か続き、
お祝いを持って行っても花嫁には会えませんでしたが、花婿が応対してくれ、
部屋の中に用意されたいた料理を食べて勝手に帰るものでした。
不思議なやり方と思いながら、それがその民族のやり方なのだろうと家路についたことがあります。
ユダヤ人の結婚式もそれに似たところがあります。
戸が閉められ、中に入れないことはなく、逆に誰でも入れるような婚宴でした。
6)テキストによれば、5人の愚かなおとめたちは戸が閉められ、中に入れないと言うのです。
ただ、テキストは「天国」での婚宴の譬えですので、事実を述べているのではありませんし、
備えることの大切さを教えたとえているので、テキストのような話になったのでしょう。
4.
1)信仰は今だけの問題ではありません。
まだ見ていない神の教えを信じることです。
私たちは、今より、むしろ死んでから素晴らしい所へ行けることを信じて信仰を持って生きています。
この世では苦しい、悲しいことが多いです。
この世で生きるのが嫌だと思っている人もいます。
だからこそ、死んだらあの人がいるところ、あの人とは主イエス・キリストがおられる所、
そこなら間違いなく涙することもなく、辛いこともなく、
楽しい所、婚宴をしている喜びの処、神が共にいてくれる所だから行きたいと望みを持って今信じて生きています。
2)配偶者や自分の兄弟姉妹、あるいは子どもたちに先立たれ、この世に親しい人も殆どいなくなった人が、
この世に未練を持たず、かと言って一生懸命生き、死後の世界に夢を持って力強く生きている人を何人か知っています。
彼らは天国に行くことを首を長くして待っています。
仲良く、親しい交わりを持っていた人たちがいる場所に行けると楽しみを持って生きています。
その為の準備を怠りなく済ませています。
3)誰も、死後がどんな所か分る人はいません。
しかし、間違いなく素晴らしい所だろうと信じています。
そう信じているだけでなく、素晴らしい天国のことを現実味を持って生きています。
彼らは今生きていることを決して投げやりになったりせず、いつ死んでも良いように毎日しっかり生き、備えは万全です。
全てを神に委ねて生きています。
私たちも、いつ花婿が来ても良いように、また、いつ自分の命が終わろうが、いつ世界が終わろうと、
用意周到、常に備えて毎日天国に向かって生きなければなりません。
「目を覚まし」(13節)て、しかもいつ何が起きても良いように常に備えて毎日を生きて行きましょう。