≪メッセージの要旨≫  2017年  11月  5日   全聖徒主日


        
聖書 : ヨハネによる福音書     15章  1〜17節

        
説教 :  『 あなたの行き先は? 』    高塚 郁男 牧師



1) 聖書は人々に希望を与える書物です。
  アブラハムから始まってイエスに至るまで旧約聖書2000年以上の歴史を一瞥すると、
  聖書は神がイスラエルの民に与えた希望の記録と言えます。
  イスラエルの民は何度も土地を追われたり外国から攻められたり苦しい闘いを強いられました。
  いつの時代も生きるか死ぬかの闘いを余儀なくさせられました。
  しかし、神は彼らを見捨てませんでした。
  彼らが反省し、自分たちが犯した罪を悔い改めることが分ると、最後には民に苦難や葛藤を乗り越え希望を与え続けました。


2) このことは、イエスによって始まる新約時代から現在に至るまで2000年の歴史を通しても同じです。
  人間がどんなに苦しい歴史を背負うと、神は最後に人間に希望を与えました。
  今私たちが生きるのに八方塞がりの状態でも、神にしっかり結びついていれば神は希望を与えてくれます。
  そのためには神にしっかり結びついている信仰が必要です。
  今日の福音書のテキストからもそのことがはっきり伺い知ることが分ります。


3) 『ヨハネによる福音書』15章には
  教会に来たことがある人なら一度ならず聞いたことがあると思いますが、良く知られた言葉がいくつも記されています。
  まず、イエスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(15:1)と言います。
  主イエスは自分をぶどうの木、神をぶどうの木の世話をする「農夫」に譬えます。
  ぶどうの木は農夫が手を入れないと雑草のように蔓延るだけで豊かな実を結びません。
  良い実を結ぶためには、ぶどうの木は農夫の手から離れることは出来ません。
  同じようにイエスは父なる神としっかり結びついています。
  続いて、イエスは自分と弟子たちの関係を
  「わたしにつながっていなさい。
     わたしもあなたがたにつながっている。
     ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、
     あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない
」(15:4) と言います。
  ここでは、イエスがぶどうの木、弟子たちはその枝に譬えています。
  枝は木に結ばれているからこそ実を結ぶことが出来るので、木に結ばれていなければ実を結ばないどころか、枯れてしまいます。
  あなた方
  (15章4節では直接弟子たちのことを指していますが、今現在聖書の言葉に触れ神を信じている私たちのことを指しています)
  もイエスに結ばれていなさい、そうでないとあなた方は命も枯れてしまうと教えます。
  もう一つ、最も良く知られている言葉
  「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
     人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
     わたしを離れては、あなたがたは何も出来ないからである
」(15:15) と続きます。
  私たちが主イエスに結ばれていれば、私たちも「豊かな実を結ぶ」とイエスは約束します。
  嬉しい言葉です。


4) 実はこの15章は14章から始まる一連の「イエスの決別の言葉」の中で語られています。
  15章は1節から6節までと7節以下は分かれています。
  7節以下は決別の色合いが濃い部分で、本来15章1節から6節までは挿入された感が強い言葉です。
  7節以下はイエスが弟子たちに自分の死を目前に語る決別の言葉で、この世を去った人たちを思い起こす「全聖徒主日」に相応しい言葉です。
  イエスは自分の死を前にして、イエスにしっかり「わたしに結ばれていれば豊かな実を結ぶ」と約束しています。
  イエスの決別の言葉は悲しいメッセージではなく希望に満ちた素晴らしい言葉です。


5) キリスト教では亡くなった人をどのように扱うか議論の多いところです。
  聖書には解答がありません。
  加えて、宗教的に異なった背景を持つ日本人は尚のこと、死後については色々異なった考えを持っています。
  信仰的に素晴らしい働きをした人が亡くなると「聖人」と呼ばれ、特別にいつまでも尊ばれます。
  最近ではマザー・テレサなどがそうです。
  そのような人たちはいつまでも全世界の教会から忘れ去られることがありません。
  一方、私たち一般のキリスト信者が亡くなった人は「聖人」として敬われることはありませんが
  「聖徒」として教会が存続する限り、毎年祈りの中で覚えられます。
  10年前であろうが20年前であろうが信仰を持って亡くなられた方は教会でいつまでも覚えられ続けます。
  毎年11月第1日曜日が「全聖徒の日」として亡くなられた方々を覚える礼拝をします。
  いずれ私たちもこの「全聖徒主日」の礼拝で名前を呼ばれ、教会の中では忘れ去られることはないでしょう。
  これも私たちにとっては有りがたいことです。


6) 人が亡くなったら天国に行くのか、地獄に行くのか、それは私たちが詮索することではありません。
  神が決めることです。
  父なる神がいる天国に入れてもらえるのか、
  あるいは、恐らく亡くなってからも魂が苦しみ続けるだろうと言われる地獄に落とされるのかは分かりません。
  神に全てを委ねて神から離れないように、信仰を失わないように、しっかり聖書のみ言葉にしがみついていればいいのです。
  その時、私たちには豊かな実が与えられますから。
  主イエスにしっかり結ばれることが大切です。
  そうすれば豊かな実を結びます。
  これが主イエスの決別の辞であり遺言です。
  私たちは、自分の行き先のことは神に任せ、イエス・キリストというぶどうの木から切り離されない枝としてしがみつくことが大切です。
  その時私たちの行き先も約束されます。
  キリストの木から切り離されないように、木にしっかり繋がっていれば行き先を心配することはありません。
             

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