≪メッセージの要旨≫ 2017年 12月 17日 待降節第3主日
聖書 : ヨハネによる福音書 1章 19〜28節
説教 : 『 偉大なお方 』 高塚 郁男 牧師
1.《待降節》 : イエス・キリストが誕生する4週間前は「待降節」と呼ばれます。
神の子救い主イエス・キリストが神の子としてこの世に降りて来られるのを待つ季節です。
救い主の到来は私たちにとって喜びであり、そのお方が来られるのを待つことは喜びです。
また、期待であり希望です。
待降節の主題は喜びであり、望みを期待して待つ季節と言えます。
イエス・キリストの誕生は喜びであり、期待を持って待つ希望の時です。
キリストの誕生は2000年前の事実で、過去のことですが、今もなお、今年も改めて希望を持って待つ時です。
《福 音》 : 先ほど読んで頂いた 旧約聖書イザヤ書61章1節 には
「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。
私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み、囚われ人には自由を、つながれている人には解放を告げ知させるために」
と謳っています。
「貧しい人に良い知らせを伝え」
「打ち砕かれた心を包み」
「囚われ人には自由を」
「繋がれている人には解放を告げ知らせる」
とは良き知らせであり福音です。
キリストが来られることは大いなる福音です。
《誕 生》 : イエスの誕生は昔も、今も、これからも私たち人間にとって良き知らせであり福音です。
2.《洗礼者ヨハネ》 : 「待降節第3主日」に与えられた福音書のテキストには「洗礼者ヨハネの証し」と題が付けられています。
ヨハネが荒野で素晴らしい働きをしているので、人々は彼こそ待望していた救い主の到来と思われました。
人々は確認します。
「あなたは、どなたですか」と。
人々はヨハネのことをメシアですかとか、旧約聖書に登場する預言者の一人エリアですかと尋ねます。
彼がはっきり「そうではない」と答えると、それではいったい、「誰なのです」かと確認します。
そこで、ヨハネは、自分は救い主メシアではないと答え、代わりに救い主イエスのことを証します。
ヨハネはイエスの親戚です。
イエスよりも6か月程年長者です。
イエスが登場するに当たり、イエスの為に「主の道をまっすぐに」(1:23)するために先駆者として知られています。
3.《偉大な人イエス》 : 人々は、ヨハネが誰であるかを正しく答えることが出来ませんでした。
ヨハネは自分が、人々が長年待ち焦がれていた救い主ではないと答えて、二つのことを証しします。
一つは、自分は水で洗礼を授けるが、
自分の後に来られる方は「聖霊と火で洗礼を授ける」(ルカによる福音書3:16)と言います。
「聖霊と火で」とは神の力によってという意味です。
もう一つは、
私の後に来られる方は、「わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ3:27)ほど素晴らしい人だと証します。
このことから何を私たちは教えられるのでしょうか。
4.1)ヨハネは言います。
皆さんは私の説教を聞き、私から水で洗礼を受けるが、
私の後から来られる方は、私とは全く比べ者にならない偉大な方で、私はその方の履物のひもを解く資格もない。
彼こそ救い主であり、
「貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み、囚われ人には自由を、つながれている人には解放を告げ知させるために」
来られると力強く証します。
5.1)洗礼者ヨハネはこれから来られる救い主イエス・キリストを前にして、自分を徹底的に低くし、ひれ伏し、
謙虚に、自分を前面に出さず、一方、イエスを偉大な方として伝えています。
私たちも救い主イエス・キリストの誕生を目の前にして、改めて自分を謙虚に、
自分には何も主張することもない、ただ、あなただけを受け入れます、と言う信仰を取り戻したと思います。
私たちは自分を高めようと自己主張を強くします。
それを突き進むと他者を打ち負かそうと自分の強さを一層主張しようとします。
自分を低くし相手を受け入れようとしません。
2)しかし、ヨハネは、彼自身素晴らしい説教者であり、人々からも尊敬されていましたが、
自分の後から来られる方は自分より偉大な方であることを素直に認め、自分を低くしています。
自分を低くし、相手を高めると、私たちはより素直になることが出来、楽になります。
無理しないで生きることが出来ます。
3)私たちには足りないことがたくさんありますが、最も足りないのは、偉大なお方を受け入れる心です。
偉大なお方の極みは神です。
神を確かな存在として受け入れる心が最も苦手のようです。
神は見えないからです。
神は形がないからです。
しかし、この偉大な方を受け入れることが出来れば、今年もキリストの誕生を喜んで心からお祝いすることが出来ます。