≪メッセージの要旨≫ 2017年 12月 24日 降誕祭前夜(クリスマス主日)
聖書 : ヨハネによる福音書 1章 1〜14節
説教 : 『 喜びを伝える 』 高塚 郁男 牧師
1.クリスマスおめでとうございます。
今年も皆さんと一緒に主イエス・キリストの誕生をお祝い出来感謝です。
2000年以上も前にお生まれになった救い主イエス・キリストを今でもお祝い出来る私たちは何と幸せなことでしょうか。
2.今年のクリスマスに与えられた福音書のテキストは「ヨハネによる福音書」1章1節から14節です。
「ヨハネ福音書」は「マタイ福音書」や「ルカ福音書」とは全く違った描写で救い主キリストの誕生を記しています。
1)「マタイ福音書」では異様に輝く星の輝きに導かれた3人の占星術の博士が登場します。
何百キロも離れた遠方で3人の博士は、普段とは全く違った星の輝きが特別な王の誕生と確信し、
黄金・乳香・没薬の贈り物を携え、イエス・キリストの誕生を祝いにベツレヘムに赴き、宝物を捧げます。
2)「ルカ福音書」は羊飼いが登場します。
羊飼いは野宿をしながらいつものように寝ずに羊の番をしています。
そこへ天使が現れ、彼らに
「恐れるな。
わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシア(救い主)である。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」(ルカ2:9〜10)
と救い主の誕生を伝えます。
3)「ヨハネ福音書」は全く違った形でイエスの誕生を記します。
「初めに言があった。・・・
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1章1節・・・14節)
と、イエス誕生を表現しています。
救い主の誕生を「光」ととらえ、「光」を証するために洗礼者ヨハネを登場させます。
洗礼者ヨハネは「光}を人々に知らせ、証するために遣わされています。
3.今生きる私たち、イエス誕生後2000年以上も経って生きている私たちは、
「ヨハネ福音書」のメッセージを聞いて、どのように生きたらいいのでしょうか。
二つのことに注目してみました。
一つは、イエス・キリストが与えられたことは「多いなる喜びである」言うことです。
1)一つの具体的な話をします。
これは私がもう50年も前に経験したことで、決して忘れられないクリスマスの出来事です。
まだ私が高校生の時のことです。
私が育った教会は、時々お話しているように、宣教師館のガレージの二階に作られた小さな集会所でした。
下にはいつも2台の大きな外車がとまっていました。
ガレージの二階と言っても相当大きな街道がありました。
この礼拝堂より大きく40人は入れました。
礼拝はいつも一杯でした。
私が洗礼を受けた初代の宣教師は私が高校二年生の時帰国され、
これから話すクリスマスの時にはもうおりませんでした。無牧の教会です。
富士教会と似ています。
自分たちで何とか守っていました。
教会学校には小学生を中心に40〜50人の人たちが所狭しと集まっており、
彼らを担当していたのが高校生の私と同じ年の王一人の男性、それに大学生一人の3人でした。
クリスマスが近づき、3人で40〜50人の生徒にクリスマスプレゼントを何にしようかと相談したのですが、
何しろお金がありません。
クリスマスプレゼントがないクリスマス礼拝など考えられず、
仕方なく、クリスマス礼拝そのものをしないことに決め、二階から降りて帰ろうとした時に、
日本語を勉強していた宣教師がたどたどしい日本語で、
“塚さん、アメリカからCS宛てに手紙が来ました” と声をかけてきました。
中を開けてみると手紙と20ドル紙幣が一枚入っていました。
当時1ドルは360円でしたから20ドルは7,200円です。
翌年私は神学校に行き6年間学び牧師になり、
初任給が6,000円でしたから、7,200円は私の初任給よりかなり多かった訳です。
手紙には、
二年前にガレージの上の教会学校の子どもたちがアメリカのある教会に自分たちが書いた絵を送りました、
そのお礼として2年後のクリスマスに20ドルを添えて返事が来たわけです。
3人のCS教師は大変感激し、私の給料以上のお金が来たのですから、
40〜50人のクリスマスプレゼントを買ってもおつりが来るくらいでした。
本当に驚きの、喜びのクリスマスが出来ました。
クリスマスの出来事は今でも驚きであり喜びです。
2)「ヨハネ福音書」は
「初めに言があった。
・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」
とイエスの誕生を記していますが、
1章の4節以下に洗礼者ヨハネが登場して、
救い主イエスが自分の後から現れ、救い主のことを証する場面が続きます。
「証」することは人々に救いの喜び、福音を人々に伝えることです。
ここに今日の二つ目のポイントが見えます。
私たちもクリスマスの喜びを受けるだけでなく人々に「証」し伝えることです。
どのようにして?
仰々しく考えることはありません。
私たちは自分の信仰を最後まで守り続けることです。
苦しいことがあっても苦しみながらそのまま礼拝に来続けることです。
病気であっても祈り続けることが「証」になります。
礼拝に来続けることが、周囲に「証」となって伝わります。
“あの教会は牧師がいなくて良くやっているなあー” と思わせることが
今の時代の、外に出て行ってどんどん伝道するという積極的な福音伝道ではありませんが、
救い主のことを自分の信仰を持ち続けることが、消極的と人は言うかもしれませんが、
これが福音伝道の第1歩であり、救い主誕生の喜びを伝えることになります。