≪メッセージの要旨≫  2017年  12月 3日   待降節第1主日


        
聖書 : マルコによる福音書     11章  1〜11節

        
説教 :  『 主がお入り用なのです 』    高塚 郁男 牧師



1.人は、“誰からも必要とされていない”ことが分ると生きる気力を失い、生きる意義を見出さなくなります。
  そういう人は自分で自分の命を絶つことにもなります。
  しかし、そういう人こそ 「主がお入り用なのです」。
  主は決してそういう人を知らないとは言いません。


2.1)島 赤人と言う死刑囚がいました。
    この名前は本名ではありません。 
    詩を書く時の号です。
    母親は彼が幼い時に亡くなり、以来親戚にたらい回しにされ育てられます。
    小学校も満足に行けず、殆ど欠席が続きます。
    小学校の高学年になって父の元に戻りますが、病弱と言うこともあり、中学にも満足に行けません。
    当然ながら友だちも一人もできません、いません。 
    淋しい日々が続きます。
    中学を卒業し、高校も行けず、しばらくして、あてもなく秋田の田舎をとぼとぼと歩いていた時、空腹を覚え農家の台所に押し入ります。
    盗み食いをしている最中に、昼休みでその家の主婦が戻って来て台所でバッタリ鉢合わせになります。
    咄嗟に彼は包丁を取り、主婦を刺し殺してしまいます。

  2)刑務所に入所している時に、満足に行けなかった中学時代のことをふと思い出します。
    生涯たった一度褒められたことがあり、そのことを思い出しました。
    誰一人話す友もおらず、学校へ行っても面白くなかった時、
    図工の先生が彼の絵を見て、“お前の絵は何を描いているかさっぱり分からないが構図がとても良い” と褒めてくれました。
    彼の人生でたった一度の褒められた経験でした。
    彼は刑務所でそのことを思い出していたのです。

  3)刑務所の計らいでその中学校の図工の先生が誰であるか突き止め連絡を取ります。
    島 赤人と文通が始まります。 
    文通の相手は先生ではなく、先生の奥さんでした。
    奥さんはクリスチャンで彼に手紙で聖書のことを教えます。
    素直に奥さんの手紙の内容を受け入れ、刑務所の中で信仰生活を始めます。
    彼は中学の絵の先生のお陰で、刑が執行される束の間の間でしたが、
    救いの喜びが与えられ、自分の罪を悔い、亡くなった農家の主婦の為に日夜謝罪を繰り返し、神を信じた生活を続けました。
    若くして死刑執行を自ら望み、世を去りました。
    たった一度の褒められたことを思い出さなかったら、
    誰一人友を得ず、淋しい人生のままで死んで逝った筈の島 赤人でしたが、彼は素直な思いで天に召されました。


3.1)「いのちの電話」 が静岡にもあります。
    これはもう50年以上も前にドイツの宣教師ヘットカンプ先生の呼びかけで立ち上げられました。
    今では全国にあります。
    先生はルーテル教会の人ではありませんでしたが、私たちの神学校のドイツ語の先生で、授業の中でも、よく山谷の話をしてくれました。
    そこを拠点にいのちの電話相談が始まりました。

  2)「いのちの電話」 のキャッチフレーズのような言葉は、「あなたはけっして一人ではありません」 です。
    真夜中でも昼間でも自殺(自死)願望者から電話がかかると、
    その電話を最後に実際に自殺する人もいますので、最後に必ず、例えば 「明日朝8時にまた電話してね」 と約束します。
    相手が約束するまで電話は切りません。
    約束すると殆どの人が次の日の朝電話してきます。
    約束しないと、その人は電話を切ったあと自殺してしまう恐れがあります。
    自殺願望者は寂しく、話す友もいないので最後に 「いのちの電話」 に電話することが多いです。
    「明日必ず電話してね」 と約束すると、話せる相手がいるという思いで一日待つことが出来ます。


4.教会では今日から新しい一年が始まります。
  主イエス・キリストの誕生日から4週間前の日曜日から新しい教会のカレンダーが始まります。
  「待降節」 と呼び、今日はその第一主日と呼び、4回続き、イエスの誕生日になります。


5.1)今日の福音書のテキストには主イエスと弟子たちがエルサレムに迎え入れられる話が記されています。
    エリコの方からどんどん坂道を上り、エルサレム近くのベトファゲとべタニアに差し掛かった時に、
    イエスは二人の弟子を使いに出して、誰も乗ったことがない子ろばを引いて来なさいと命じます。
    もし、誰かが 「なぜ、そんなことをするのかと言ったら、『主がお入り用なのです』 と言いなさい」 と命じます。
    子ろばに対して 「主がお入り用なのです」 という内容ですが、この 「主がお入り用なのです」 と言う言葉がとても気になります。

  2)この言葉は私たち人間に語りかけている言葉と読みたいです。
    周囲の人は私に話しかけてくれない、誰も友達がいない、生涯孤独である人に、
    主は、「でも、私があなたを必要としている」、「私にとってはあなたはかけがえのない人」 と言って入れているのです。

  3)私たちの周りには多くの孤独な人、友のいない寂しい人、話し相手がいない人が多くいます。
    教会に来たくてもなかなか来れない人もいます。
    都会の中の孤独者と言うか、私たちの周りには誰一人言葉をかけてくれない、話したくても話す相手がいない人が多いです。
    そんな時、「主があなたを必要としています」 「主があなたをお入り用なのです」 と言っています。
    それを既に主によって喜びを与えられ、良き福音がどんなものか分かっている私たちが、
    「あなたこそ主がお入り用なのです」 と言ってあげられたら、どんなに人は立ち上がることが出来るか計り知れません。
    実際、主は私たちひとり一人に 「主があなたを必要としています」 と言ってくれています。

  4)主イエスが誕生するとき、イエスに与えられた名前は 「インマヌエル=神は我々と共におられる」(マタイ1:23)でした。
    主はあなたたちと共にいます。
    教会に来ていない人にも、共にいるのが主イエスです。
    生きる意味を失った人にとっても、
    今日、自分で自分の命の必要性を見出せない命を絶とうと決断した人にとっても、
    主イエス・キリストは共におり、「あなたを必要としている」、「主があなたをお入り用としている」 と言ってくれています。

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