≪メッセージの要旨≫  2017年  2月 19日   顕現節第7主日


        
聖書 : マタイによる福音書       5章 38〜48節

        
説教 :  『 信仰の実 』     高塚 郁男 牧師


1.私たちがどうしたら力強く生きられるか、弱っているときにも挫けずに生きられるか、
  今日はそのことを考えてみたいと思います。
  私たちは皆弱い人間です。
  倒れる手前で辛うじて生きている人が多いと思います。
  その人たちに信じることが最高の力になることを伝えたいと思います。
  人間は弱いのですが、意外と自分の弱さを認めたくありません。自分の限界を認めることは難しいことです。
  私たちの知恵や力などは微々たるものです。
  それなのに自分の力を誇示しようとします。
  それでは本当の人生の素晴らしさは体験できません。
  弱ければ弱さを素直に認めることが生きる上では極めて大切なことが聖書は教えています。
  そのことを今日は知っていただきたいと思います。

2.まず今日の第2のテキスト、コリントの信徒への手紙第一の3章の18節以下の言葉から学びましょう。
  パウロは
  「だれも自分を欺いてはなりません。
    もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、
    本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」

  とパウロは言っています。
  パウロはまず自分を「欺くな」と言います。
  自分をごまかしてはダメです。
  ありのままの自分でいなさい。
  弱ければ弱いでいいのです。
  何故ならキリストが強くしてくれるから、と言います。
  次いでもし、自分が本当に知恵があるのなら、その知恵を誇らしげに言い張るのではなく、愚かな者になりなさい。
  そうすればもっと知恵を神が与えてくれると言います。

3.パウロはずば抜けた才能を持った人です。
  律法学者で若くしてユダヤ人の指導者になりました。
  その彼がキリストを知るに及んで、自分は自分の弱さを誇ると言います。
  「わたしは、苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、
    鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
    ユダヤ人からは四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことは三度、
    石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。
    しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、・・・」
  (コリントの信徒への手紙二11章23節以下)
と振り返っています。
  彼はそれらに打ち勝った力を誇示していません。
  30節で
  「誇る必要があるなら、私の弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」
  更に12章に入って
  「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
    ・・・なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(12:10)
 と言っています。
  これが信仰の素晴らしさです。
  彼は自分の強さではなく弱さを誇っています。

4.パウロは元々頑強な精神を持っており強い人でした。
  イエスを十字架につけた時もその指示を出した可能性があります。
  イエス・キリストを殺すことに息を弾ませるほど強い人間でした。
  その彼が、イエス・キリストを知って、自分の強さをかなぐり捨て、むしろ弱さを知り、弱さを誇る人間に生まれ変わりました。
  私たちは強さを知るよりも弱さを知り、自分の弱さを知るときに、実は強くなるのです。
  自分の力で強くなるのではなく、自分自身は弱いのですが、キリストが強めてくれるのです。
  自分の弱さをそのまま認め知るとき、自分の死さえも恐れないキリストによって私たちは強くされます。

5.もう一つ、人間が弱くても、苦しくても強くされる事柄を今日のマタイによる福音書から学びたいと思います。
  イエスは
  「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
    しかし、わたしは言っておく。
    敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5:43〜44)

  何という教えでしょうか。
  これは大変厳しいイエスの命令です。
  守れない教えです。
  しかし、もし、仮に私たちを苦しめたり、迫害したり、憎しみしか持てないような人を愛することが出来るとしたら、
  これこそ真に人生の光を得た人の生き方が出来ます。
  敵を愛することが出来る人は、たとえ貧しくても、苦しくても、充実した豊かな生き方が出来ます。

6.たぶん、富士教会の方々は、以前この教会で牧師をされていた山本先生からこれから私が話す実話をお聞きになっているかと思います。
  もう一度その話を紹介したいと思います。
  韓国に堤岸里という田舎の小さな教会があります。
  その教会を私たち東海教区の人たち25名程がもう30年以上も前に訪ねました。
  1919年に日本の統治下にあった韓国は3・1独立運動が起こります。
  日本の統治を反対して独立しようとした民衆運動です。
  40キロ位離れた提岸里の村でもその運動は起こりました。
  日本軍は村の人たちと話をしようと男性を教会に集めました。
  話とは名ばかりで29名の青年男子が教会の中に入ると日本軍は外に出て教会に火をつけ、中にいた男性を殺しました。
  その時、その現場を見ていた一人の女性がいました。
  中で殺された一人の男性と結婚したばかりの16歳の女性でした。
  私たちはその人に会うことが出来ました。
  会って話を聞いた時すでに70歳を超えていました。
  彼女はいかなることがあっても日本人を許すことが出来ませんでした。
  当然です。
  そんなあるとき、その村に来た宣教師の教えに触れ、キリストの十字架の愛の教えを学びます。
  それは「敵をも愛する愛」です。
  遂に彼女の数十年に渡る日本人を憎む心は消え、敵である筈の日本人を愛することが出来るようになりました。
  私たちが訪れた35年前には無かった博物館が今では歴史資料館として新しく建てられています。
  そこに大きな彼女の地面にひれ伏し、
  「許すこそすれ、忘れるなかれ。 和解と容赦」
  の文字が書かれています。

7.人を赦すこと、これは大変難しいことです。
  しかも敵をも赦す愛など私たちにはなかなか出来るものではありません。
  しかし、それを可能にしてくれるのは神です。
  十字架上のイエス・キリストです。
  この愛こそ信仰から生まれる実です。
  これが可能になったら私たちは心底から、たとえ肉体は弱っても豊かな人生を送ることが出来ます。

過去の音声メッセージに戻る