≪メッセージの要旨≫ 2017年 3月 5日 四旬節第1主日
聖書 : マタイによる福音書 4章 1〜11節
説教 : 『 誘惑に負けない為に 』 高塚 郁男 牧師
1.多くの人は一冊や二冊青春時代に愛読した本があったと思います。
教会に来る人だったら三浦綾子の「塩狩峠」とか遠藤周作の「沈黙」など読んだのではないでしょうか。
一冊や二冊ではなく、その著者が著す書物を次から次に読み漁る人もいたと思います。
それらの書物は感動を与えてくれますが、正直言って、私たちの生きる糧にはならないと思います。
2.私は高校時代に倉田百三の「出家とその弟子」という本を何度も何度も、
しかも赤鉛筆で線を引き真っ赤にして二冊目もボロボロにした経験があります。
何故その本を耽溺したかというと、一つは教会学校の教師の中に駒澤大学の大学院で仏教哲学を学んでいた親友がいました。
その人の紹介で読み始めたのがきっかけです。
「出家とその弟子」は浄土真宗の祖になる親鸞の教えが基に書かれています。
キリスト教の教えに近かったことも私の関心を寄せた理由です。
3.例えば、親鸞を祖とする浄土真宗は占いや方位などは信じません。
位牌はありません。
友引や大吉など、今、日本人の多くの人が大事にしていることも信じません。
人が救われるのは自分の力、つまり自力で救われるのではないと教えます。
お釈迦様が解かれた教えを信じて救われると言います。
他力本願です。
これは聖書の教えに極めて近い教えです。
信仰義認です。
信じて救われると言うのは 「信仰義認」 です。
パウロもルターも最も強調した教えです。
人が救われるのは何か善いことをしたから救われるのではない。
罪人であっても主イエス・キリストの教えを信じることによって人は救われます。
4.私が「出家とその弟子」に引かれたもう一つの大きな理由は、
親鸞は絶対的な存在ではなく、彼も弱い人間として描かれています。
弟子唯円が色々なことを聞きますが、親鸞は
「私も弱い。 病気になると死にたくないと思うし、罪を犯すことだってある。悩むことだってたくさんある」。
親鸞は自分が強いとか正しいとは言いません。
仏教界では本来妻帯を認めていませんが、親鸞は結婚したり子供を孕んだりします。
彼は極めて人間的な生き方をしています。
そのなところが私を引き付けた理由です。
5.私たちは皆弱いのです。
怒りたいときは怒りますし、何か言われるとすぐ参ってしまいます。
萎れます。
病気になると途端に弱音を吐き、もう先がないように沈んでしまいます。
しかし、人間はこれでいいんです。
私たちは誰かに褒められたいのです。
誰かから励まされたいのです。
そんなに弱い存在です。
そんな時どうしたら良いか、今日の福音書のテキストに解答が出ています。
6.今日のテキストは、イエスが悪魔から誘惑を受けた時どのように対処したかの教えです。
イエスにとっては大変厳しい状況に立たされます。
イエスは悪魔と戦います。
戦う場所は荒野です。
悪魔は勝つ自信があったと思います。
しかし、私たちは初めからイエスが勝つのがわかります。
1節に 「霊″に導かれて」 と書かれています。
この霊という字に ″がついています。
この霊にこのマーク ″がついていると、この霊は神の霊を表しますから、
イエスは神の力、神の霊に導かれて荒野に行くことになります。
神が導いている戦いですから負ける筈がありません。
7.イエスは40日間断食をした後、悪魔から
「石ころがパンになるように命じてみろ」 と言われます。
イエスは悪魔の挑発には乗りません。
その代り、断固として
「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
と旧約聖書の言葉を引用して悪魔を退けます。
二番目の誘惑は神殿の屋根の端に立たせ、
「神の子なら飛び降りろ」 と命じますが、その挑発にも乗りません。
悪魔はイエスを高い山に連れて行き三番目の挑発をします。
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、国々を与えよう」 と言います。
イエスは
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」
と、また旧約聖書の言葉を引用して対戦します。
8.イエスは悪魔に対してことごとく神の言葉を使って戦いました。
私たちもそうしたいです。
好きな書物も言葉もありますが、それらは感動を与えることがあっても私たちの生きる力にはなりません。
私たちが力を失い、弱った時、辛い時、苦しい時、死にたくなる時、
そんな時こそ神の言葉をしっかり握りしめ、神の言葉以外に生きる土台はありません。