≪メッセージの要旨≫  2017年  4月 16日   復活祭(イースター)


        
聖書 : ヨハネによる福音書    20章 1節 〜18節

        
説教 :  『 上のものを見る目 』   高塚 郁男 牧師


1. 主イエス・キリストは生きているときから自分の死を弟子たちにしばしば預言していました。
  弟子たちは理解出来ませんでしたが、イエスははっきりと
  「自分は必ず多くの苦しみを受け、
     長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている

  (マルコによる福音書8章31節) と言われました。
  師と仰いで従った弟子たちはとって、師が殺されると言われても困ります。
  彼らは自分の職業を捨て、家族を捨て、
  生涯イエス・キリストを主と信じてどこまでも従って行くと誓い、イエスに従ったのです。
  そのイエスが殺されるとはとんでもないことです。
  ましてや 「苦しみを受け、人々から排斥され殺される」 ことは容認出来ません。

2. しかし、そのことを辛うじて信じた人もいました。
  マグダラのマリアです。
  マリアという名前はポピュラーでしたので、
  彼女はガリラヤ湖の西のマグダラ出身なのでそのように呼ばれていました。
  彼女は7つの悪霊に憑かれ苦しんでいた時にイエスに癒された人です。
  そんな彼女ですからくどくどと考えた結果イエス様を信じたというより、直感的に無条件にイエス様を神の子と信じていました。
  マグダラのマリアの信仰は単純で素直です。
  イエスが生前しばしば 「苦しみを受け、人々から排斥され殺される」 と預言していましたから、
  その言葉を案外素直に信じていたのではないでしょうか。
  「苦しみを受け、人々から排斥され殺される」 という預言だけでなく
  「三日の後に復活することになっている」 の言葉もそのまま受け入れていたのでしょう。
  三日目の朝、つまり 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに墓に行」(ヨハネによる福音書20:1)きました。
  預言通り、マリアが信じていたように、イエスの体は墓の中にはありませんでした。
  イエスは三日目に生き返ったのです。

3. 人が息を引き取り、丸々二日も経っていながら生き返ることは大変不思議な出来事で、誰も信じられません。
  ましてやイエスの場合は生前に預言をし、預言がその通り実現し、生き返えったのですから、
  これはまさに人知では到底考えられないことです。
  マグダラのマリアはイエスの言葉を半信半疑、万が一起こるのではないかと、
  「朝早く、まだ暗いうちに」、人が行き交う前に、イエスが葬られた墓に行きます。
  そこで 「見た」 状況は、半信半疑だったことが現実となり、人間の世界では起こり得るはずがない出来事が起きたのです。
  神の子だから出来る、神だから不可能が可能になったのです。
  彼女はそのことを 「見て・・・走って」(ヨハネ20:2) 人々に知らせに行きます。

4. 今日のテキストを何回か読むと自然に目に入る言葉があります。
  それは 「見る」、「見た」、「見て、信じた」 という 「見る」 という言葉が何回か出ています。
  これは残念ながら日本語では 「見る」 と一つの訳になりますが、
  元の言葉では違った単語が使われ、それぞれ違った意味合いを持っています。
  特にその中で注目するのは8節です。
  「見て、信じた」 という言葉です。
  1節には 「石が取りのけてあるのを見た」 とあり、
  6節には 「亜麻布が置いてあるのを見た」 とあり、何かを具体的に見ています。
  一方8節はただ 「もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」 とあり、何を見たかは書かれていません。
  何を見たのでしょうか。
  空になった墓を見て、その背後に、姿なきイエス・キリストを見たのです。
  イエスがいないことを見て、信じたのです。
  ここが大事です。

5. 死んだ人が甦るとは驚きですし、信じ難いです。
  しかし、イエスは事実甦りました。
  弟子たちはそのことを目の当たりにして、イエスが甦ったことを知り、
  イエスを間違いなく神の子キリストと信じたのです。

6. 「見て、信じた」 の 「見る」 は何か物を見るのとは違います。
  肉の目で見ることの出来る具体的な物を見て満足するのではなく、その背後にあるものを見ることです。
  見えないことを見ることです。
  それが出来なければイエスの復活の意味を知ることが出来ません。
  イエス・キリストの復活の背後に何があるかを見る目です。
  神の働きを私たちは具体的には見ることが出来ません。
  しかし、それを見ることが出来る目が必要です。
  それは、私たちがこの世で生きながら、上から働く神の力を知ることであり、
  神の働きが私たちにおよぶことを確認する目です。
  上のものを見る目があるとき、私たちの中には神を信じることが出来ます。
  パウロが 「上にあるものを求めなさい」(コロサイの信徒への手紙3:1) と言っている通りです。

7. それが出来る時私たちは喜びに満ちた生き生きとした生活を送ることが出来ます。
  墓は空になりました。
  空でよかったのです。
  イエスが復活したのです。
  イエスの復活は私たちを新しく生まれ変えさせ、新しい人間に造り変えてくれます。
  墓が空でなかったら、私たちも新しい人間にはなれません。
  希望もありません。
  喜びに満ちた生き方も出来ません。
  空の墓から私たちは神の働き、神の力を見る目を持ちましょう。
  墓が空になったからこそ、
  それを見て、私たちも新しい希望の中で生きることが出来るのですから。

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