≪メッセージの要旨≫ 2017年 4月 2日 四旬節第5主日
聖書 : ヨハネによる福音書 11章 17〜57節
説教 : 『 信じなさい、生きるために 』 高塚 郁男 牧師
1. 死は、人を悲しませるだけでなく、周囲の人を巻き込んで多くの人を絶望へと追いやります。
しかし、その死でさえ、イエスにとっては「神の栄光」(ヨハネ11:4)を人々に表す、無くてはならない出来事です。
人の死は間違いなく悲しみであり、特に家族にとっては立ち上がるのが難しいほど大きな苦しみになります。
死に直面している人にとっては希望の全くない力を失う出来事です。
それが「神の栄光」であり、
人々に力を与え、喜びを与える出来事になるとは一体どういうことなのか今日の福音書から学ぶことができます。
今日のテキストの前に、ヨハネによる福音書9章の「生まれつき目の見えない」話を足掛かりに「神の業」が何なのか、
そして今日のテキストに出てくる「神の栄光」が何であるかを知りましょう。
2. イエス・キリストがこの世に来られたのは、私たちに「神の業」を知らせるためです。
神がどういうお方か、神は私たちに何をしようとされているのか、直接私たちはわかりません。
そこで、神はイエスを遣わし、「神の業」が何であり、神の思い・意思がどこにあり、
神の目的を私たちに示すためにイエス・キリストを遣わし、それらを見える形で具体的に示されました。
私たちが主イエス・キリストを通して直接神の業を知るためにイエス・キリストは色々な「神の業」を私たちに示してくれました。
3. その一つが『ヨハネによる福音書』9章の有名な話です。
「生まれつきの盲人」がイエス・キリストによって癒され、目が開き、見えるようになった話です。
イエス・キリストと弟子たちが歩いていると、「生まれつき目の見えない人」に出会います。
弟子たちは
「先生、この人が生まれつき」目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。
本人ですか。 それとも、両親ですか」 と尋ねます。
イエスは
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである」 と答えます。
弟子たちはこの意味を十分呑み込めなかったようです。
弟子だけではありません。
今の私たちでもこの言葉の意味を十分理解出来ないのではないでしょうか。
4. 「神の業」とは、イエスを通してなされた業を知ることによって、
それを見たり触れたり人たちが生き方を変え、新しく生まれ変わることです。
神は、神を信じない私たちが、「神の業」をイエスを通して見ることによって、
神を信じていなかった私たちが神を信じるようになる、という、
私たちが変わること、
神を信じなかった人間が神を知り、向きを変えて歩み出し、神を信じるように変わることが「神の業」です。
5. 「神の業」はイエスを通して示されます。
神は私たちを救おうとイエスを通して働いています。
私たちが神から離れ、神を信じないで自分勝手に生きているのを、神は方向転換させ、
私たちを神の方に向かわせ、神を信じて生きるように変える為に、イエス通して「神の業」を私たちに示されます。
聖書の言葉で言えば、
罪の中で生きていた私たちを救うために主イエス・キリストをこの世に遣わされました。
そのために「神の業」をイエス・キリストを通して示されました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3;16)。
人が滅びないで永遠の命を得るために神は主イエスをこの世に遣わし、「神の業」を私たちに示してくれました。
「神の業」は私たちを救うためにはなくてはならないことなのです。
神の目的はここにあります。
ですから、目が見えず苦しんでいる人に生きる力を与え、喜びを与え、生きる力を救いました。
6. 今日のテキスト「ヨハネによる福音書」11章にはラザロの復活の話が出ています。
これも「生まれつき目が見えない盲人」を癒された話と同じように理解できます。
ただ違うのは、ラザロが生かされた話では「神の業」に代わって「神の栄光」が見られるとあります。
神を知らなかった私たちが「神の業」を見て、イエスを「信じる」ようになることは実に大きな喜びです。
生きる望みもなく、病の床にひれ伏している人、
希望もなく横たわっている人、目が見えず苦しんでいる人、絶望のどん底から這い上がれない人たちが神を知り、
神を受け入れること、これほど大きな「神の業」はありません。
「神の業」をイエス・キリストを通して私たちに示され、
それを私たち、神を知らず、ひたすら神から逃げ回っていた人間が神を信じることです。
神を信じなかった私たちが「神を信じる」ことが「神の栄光」です。
神の喜びは人を罪から救い出すことです。
罪の中で死んでいた私たちが主イエス・キリストを通して示された「神の業」によって動かされ、
神に向けて生きるようになることが「神の栄光」です。
イエスは群衆に神を「信じさせるためです」(11:42)に来られました。
その為に「神の業」が必要であり、それが実際に起こることが「神の栄光」です。
生きる為に、神の栄光を輝かせる為に私たちはただ信じる以外ありません。