≪メッセージの要旨≫ 2017年 6月 18日 聖霊降臨後第2主日
聖書 : マタイによる福音書 6章 24〜34節
説教 : 『 思い悩むな 』 高塚 郁男 牧師
1. 旧約聖書・新約聖書全体の内容を一言で言うと、人間を救うための神のドラマが書かれていると言えます。
神はどのようにして人間を救おうかという出来事が書かれています。
2. 神は人間をご自分に似せて造られました。
神は言いました、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記1:26)と。
「神に似せて」ですから、造られた人間は元々罪を犯さない天使のような美しい、罪を犯さない存在だった筈です。
それなのに、人間は神の言い伝えを守らず、神を裏切り、神から離れてしました。
神はその人間を元のように美しい、罪を犯さない人間にしようと、歴史を通して色々な方法を講じました。
アブラハムが聖書のごく初めに登場するのもその一人です。
またあるときはモーセを遣わし、エジプトで苦しんでいるイスラエルの民を救い出しました。
その後も何度も神は使者を遣わして人間をもう一度神の元に引き戻そうと試みました。
預言者たちも神からの使者と言えます。
どの預言者も皆、人間を神の教えに従うように訴え続けました。
ヨブも神から遣わされた人と言えます。
イスラエル人たちがバビロンに捕虜となり、外国に連れて行かれたのも、民が神の教えに従うようになるための神の試みと言えます。
それでも人間は神の教えに従おうとしませんでした。
3. 人間の罪を救い出そうと神はイスラエル人を選び、イスラエル人を通して全ての人間を罪から救い出そうとしました。
イスラエル人たちは名前をユダヤ人と変えて神に従おうと決心しました。
ユダヤ人たちは、神の救いは人類の為とは思わず自分たちだけのものと理解し、
人種にかかわらず神を信じる人を全て救おうとされた神の意志とは裏腹に、ユダヤ人たちは自分たちの救いのことだけを考えました。
4. そこで、神は最後に、ご自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、ユダヤ人だけでなく全ての人間を救おうとします。
イエスは「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」(マタイ9:35)る為に町々村々を駆け巡り、
人々が神の教えに目を開き、心を開いて神を受け入れ、神を信じるように駆け巡りました。
イエスは自分一人だけでなく弟子たちを選び、
彼らにも神のみ旨を人々に教え、救いのメッセージを多くの人たちに宣別絶えさせました。
イエスが
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じないものはすでにかれている。
神の独り子の名を信じていないからである」(ヨハネによる福音書3:16〜18)
とはっきり語っている通り、神は、世の人々が神の元に帰り、多くの人たちが神の教えを信じ救われるようとされました。
神の歴史は人類を救う為でしたが、逆に、人間は罪を繰り返し、神の教えに聞くことをしませんでした。
5. しかし、神は最後の手段を実行されます。
神はご自分の独り子イエス・キリストを十字架につけ、殺し、
イエスを人間の罪の身代わりにして、罪ある人たちを救おうとされました。
イエスが弟子たちを選び、教え、また一生懸命「御国の福音を宣べ伝え」ましたが、イエスが生きている間は実を結びませんでした。
パウロはイエスこそ神の子であり、真の救い主であることを確信し、大きな苦難を経験しますが、
彼の人はずれた努力によって徐々に神の救いのドラマは実を結んで行きます。
6. イエス当時、いかに人々は病を患い、苦しみ、悩んでいたか、今では想像を超えるものがあります。
イエスは人々に教え、神の国を宣べ伝え、人々の病気や患いを癒されました。
それだけ人々は救いを待ち焦がれ、苦しみや悩みから解放され救い主の到来を待ち焦がれていました。
山上の説教が終わるのが7章ですが、8章に入るとすぐ、
「重い皮膚病を患っている人を癒す」(マタイ8章1節〜7節)、
「百人隊長の僕をいやす」(同8章5節〜13節)、
「多くの病人をいやす」(同8章14節〜17節)等々、次から次に病気の人を癒す話が出ています。
病気の人たちは、病気になっただけで苦しいのですが、
加えて、病気は祟りとか先祖が悪いことをしたせいだと言う人も大勢いました。
病気になるのは罪を犯したからだと言い、人々を精神的にも苦しめました。
人々は二重三重に悩みました。
イエスはそういう人たちを癒すことに時間をかけました。
7.今の時代もそうです。
殆どの人は何らかの病気を持っていますし、今では“二人に一人はガンにかかる時代”と保険をあおる会社もあります。
病気の上に、それが原因で精神的に苦しみます。
ユダヤ人たちはそういう人たちを救おうとするのではなく、逆にさばき続けました。
イエスが
「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)
と言われたのもうなずけます。
また、
「疲れたもの、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。
休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われたのも、
疲れた人や重荷を負って生きている人が多かったからです。
病人即罪人、と当時の人たちは考えていました。
この考えは全く間違っています。
病気をしていることがイコール罪人と言うレッテルを貼る社会から病気を持っている人たちを救おうとイエスは必死でした。
だから、どこに行ってもイエスの周りには病気を持った群衆が押し寄せ、救いを求めました。
イエスは病人を喜んで癒しました。
病気の為に罪人のレッテルが貼られ、
社会からも人々からも疎外され、見放され、寂しく苦しんでいる人を救うことがイエスの大きな働きでした。
病気が癒された人たちはイエスを讃え、イエスを救い主と信じ、イエスに従いました。
私たちもイエスの元に行き、心も体も癒され、苦しみや悩みから解放されましょう。