≪メッセージの要旨≫ 2017年 6月 25日 聖霊降臨後第3主日
聖書 : マタイによる福音書 7章 15〜29節
説教 : 『 結果を出せなくても 』 渡邉 進 牧師
☆ 「そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実を実らせることはないし、悪い木が良い実を実らせることはない。」(マタイ7:17)
人間の言葉と行いとの関係は、その人の本質を表す。
そのことが≪木と実≫との関連で宣べられる。
木がその実を実らせることで、木の姿が示される。
つまり、木はその実によって何の木かがはっきりする。
「木はそれぞれ、その実で分かる。
茨からイチジクを取ることはないし、野ばらからブドウを摘むこともない。
善人は良い心の倉から良いものを取り出す。」(ルカ6:44)
☆ ルカは≪木と実≫との関係をもっと明確に語っている。
この記述は、イエスが≪山上の説教≫を語る、結論として語るたとえである。
しかもかなり鮮明なたとえと言える。
≪山上の説教≫では、かなり高度な教えが宣べられた。
例えば、自分の義を見せるために、人前で大げさに振る舞うことを≪偽善者≫とまで呼んだ。
そして≪祈り≫≪施し≫等が例に出され、施しをするとき、
「人に褒められるため、会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らすな。」(マタイ6:2)
なぜそのような行為がいけないのか?
☆ こそこそと行うより、よほどましではないかと思うが?
いずれにしてもイエスは、口先だけ、あるいは心にもないことを語ったり行なったりすることを禁じている。
「心からあふれ出ることを、口が語るものである。」(ルカ6:44)
“For the mouth speaks what the heart is full of”
さらにイエスは結論で≪二人の建築家≫のたとえを語る。
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行なうものを、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べる事ができる。」(マタイ7:24)
このたとえは、一見して比喩と見えるが、両者を対比的に描くことで≪挑発的≫効果を狙ったのか?
☆ このたとえは
≪賢いと愚か≫≪岩と砂≫≪行なうと行わない≫≪倒れないと倒れる≫との対比が、
たとえを効果的に描いている。
イエスが何を言おうとしているのか明確である。
誰も愚か者にはなりたくない。
≪賢い人≫になりたいと願う。
しかし、≪行なう≫≪実≫とは何を意味するのか?
我々が通常言う≪結果≫≪成果≫を言っているのか?
≪成果≫が出ないと失望する。
では、信仰の世界での≪実≫は≪結果≫のことなのか?
否である。
≪悔い改め≫こそが、実である。