≪メッセージの要旨≫ 2017年 7月 2日 聖霊降臨後第4主日
聖書 : マタイによる福音書 9章 9〜13節
説教 : 『 従ってみれば… 』 高塚 郁男 牧師
1.今年は、一年の大半は『マタイによる福音書』が与えられています。
「A表」と呼ばれ、『マタイによる福音書』が基盤に作られた表のテキストが使用されます。
先週と先々週は「山の上の説教」(マタイ値5章から7章)で、
今日から11月26日の聖霊降臨後最終主日まで『マタイによる福音書』が続きます。
2.『マタイによる福音書』は、イエス・キリストの誕生物語から始まり、
イエスが公に伝道に出かける以前のイエスの受洗と荒野で悪魔の誘惑に遇う話、
そして弟子たちに遇い、弟子たちに神のみ旨をしっかり教えた「山上の説教」(5章から7章)と続き、
いよいよイエスが公に伝道を開始する話に移ります。
伝道開始の8章・9章には病人を癒す話がいくつか続きます。
イエスの公の伝道の最初に病人を癒す奇跡があるので、
私たちは、キリスト教を信じれば病気が癒されると思う人がいますが、これは誤解です。
“キリスト教の神を信じれば願い事は何でも叶えられる”というものではありません。
奇跡などは起こらないかもしれないけど、
それ以上に、例えば大病しても慌てることなく、悠然と過ごしことが出来るようになったとか、
奇跡など無くても、死別を乗り越える力が与えられるというキリスト教信仰に立てることを私たちに教えています。
そして今日の「マタイを弟子にする」話へと移ります。
3.主イエス・キリストがガリラヤに現れて伝道を始めたとき、最初に出会ったのは漁師たちでした。
そこでイエスの方から彼らに「わたしについて来なさい」と直接言葉を投げかけます。
漁師たちがイエスに何かを求めたり質問したりしたのではありません。
イエスの方から語り掛け、それに弟子たちが従います。
イエスが語りかけ、それに従うのは彼らの信仰の姿です。
この出会いは今の時代でも同じです。
イエスは今でも同じ言葉で私たちに直接語り掛けている筈です。
イエスは私たちが求める前にイエスの方から招きの言葉をかけ、「わたしに従いなさい」と言っています。
私たちはこの言葉に従えばいいのですが、なかなか従おうとはしません。
ここでは私たちの不信仰の姿が浮き彫りになります。
4.イエスは私たちに今も直接語り掛けてくれます。
くどいですが、直接です、直接私たちに話しかけてくれます。
一対一です。
イエスが話しかけるのは大勢ではありません。
私たちひとり一人に話しかけます。一人ひとり直(じか)に語りかけてくれます。
このことを今日はしっかり知ってもらいたいと思います。
一対一でイエスは直接私たちと面と向かってくれます。
イエスは私たちの目の前にいます。
いつも、私たちの目の前にイエスがいることが「マタイによる福音書」の大きなメッセージです。
5.イエスが誕生になられた時のシーンを思い出して下さい。
マリアと夫ヨセフは結婚前でしたので、身重になったことを恐れました。
そんな時、天使は生まれてくる赤ちゃんを「イエスと名付けなさい」(マタイ1:21)と言います。
「その名はインマヌエルと呼ばれる。
その名は『神は我々と共におられる』という意味である」(1:23)、と言う言葉があります。
イエスはインマヌエルです。
神はいつも我々と共におられるという意味です。
『マタイによる福音書』は最後を「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(28:20)で締めくくっています。
初めにインマヌエル=神は我々と共におられるで始め、終わりの言葉を神はいつも我々と共におられるで締めくくりました。
主イエス・キリストがいつも、いつまでも「共にいる」ことは『マタイによる福音書』のテーマです。
いや、これは『マタイによる福音書』だけでなく、
「イエス(=救い主)が私たちひとり一人と共にいる」ということは
旧約聖書・新約聖書全体を流れる神の本質を現わしています。
神は「私たちと共にいる」ことは神の本質であり、聖書全体を流れるテーマと言えます。
6.「神が共にいる」と言うことで旧約聖書の中から一つだけ引用します。
モーセが神に選ばれ、イスラエルの指導者になるとき、モーセは神の選びを退けようとします。
その時、モーセが神に、イスラエルの民があなたのことを何と言うか質問されたら何と答えたらいいですかと聞くと、
神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)と答えています。
これは議論のある言葉ですが、「わたしは存在そのもの」という意味です。
神はおられる方、絶対そこにいる方と言う意味です。
神は天地創造の時から存在しているお方、そこにいる方です。
これが神です。
7.フランスに「ルルドの泉の奇跡」があることはカトリックの信者でなくても多くの人が知っています。
ルルドの小さな村に住むベルナデッタという14歳の少女に聖母マリアが何回か現れた洞窟があります。
聖母マリアは彼女に何回か会い、「そこに聖堂を建てなさい」という言葉を語ったそうです。
少女は読み書きが殆ど出来ず、意味が全く分かりませんでしたが、
聞いたまま司祭に話すと、司祭は理解し、
「そこに聖堂を建て」、今ではカトリック教会の有数な巡礼場所になっています。
そこでは、しばしば医療的には奇跡以外証明できない病気が癒されています。
日本からも毎年かなりの訪問者が訪れています。
私もその洞窟から湧き出る水が入った小瓶を病気の時にもらったことがあります。
ルルドの泉を訪れた人の大半は癒されませんが、
そこを訪れた喜びと、信じれば何かが起こる、
癒されなくてもそれ以上のものが与えられることを知っている人は満面に笑みを浮かべながら帰路に着くそうです。
8.奇跡が起こらなくてもいい、
イエスと共におられることが分かっただけでも大きな喜びです。
これがキリスト教の信仰です。
イエスが「わたしに従って来きなさい」と言うのですから従いましょう。
奇跡が起こらなくてもいいです。
立ち上がってイエスの言葉を信じましょう。