≪メッセージの要旨≫  2017年  7月 23日   聖霊降臨後第7主日


        
聖書 : マタイによる福音書     10章 34〜42節

        
説教 :  『 冷たい水一杯 』     秋久 潤 牧師


 『マタイによる福音書』10章34-42節では、
争いが起こるということ」と「自分の十字架を負うこと」、そして「受け入れる」ということが並んでいます。
これら三つの順番は、人間の精神的発達段階を示しているように思えます。

 たとえば、長い間、自分の財産を蓄え、所有物を増やすことを考えてきた人が、
<財産の価値がなくなった世界>に紛れ込めば、大変な衝撃を受けます。
あるいは、敵と争ってこれを殺して勝利することだけを考えていた人にとって、敵を愛するなどはとんでもないことです。
自分の居心地をよくするために異なったものは排除するのが当然であると思っていた人にとって、
異なったものを受け入れることは痛みを伴い、葛藤を生みます。
人生は戦いだと思っていた人にとって、人生の中で一番大切なものは愛だというのは、甘くて聞くに堪えないことかもしれません。
正しいことを大切にする人にとって、罪がゆるされることは受け入れがたいことです。

 私たち人間は、長い間、自分の所有を増やし、争い、異なったものを排除する道を歩んできました。
聖書の教えを知っているキリスト教でさえ、異なったものと争い、これを排除する道を歩んできました。
人間に争いが絶えないのは否定し得ない事実でしょう。
そこではイエス・キリストの教えは投げ込まれた剣となります。

 決してそうした争いを肯定するわけではありませんが、しかし、それは人間の精神がたどる一つの段階だろうと思います。
つまり、対立や争い、排除といったことは人間の精神の最初の段階だろうと思えるのです。
問題は、こういう精神の原初的段階に留まってしまうところにあるのです。

 争いのはじめの段階からさらに高次の段階が「自分の十字架を負う」ということです。
十字架は、悲しみや痛み、あるいは自分の力ではどうすることもできないことの象徴です。
悲しみや痛みを覚える時、あるいは、自分ではどうすることもできないことに遭遇した時、
私たちは何とかしてそこから逃れたいと切望して、悲しみや痛みの原因を周りの人や社会、時には神にさえ見出そうとします。
そうすると少しは安心だからです。
恨むというほどではないにしても、周りを見回し、責任の転嫁を計ることで重荷から解放されようとするのです。
そして、次に、どうにもならなくなったところで、自分の弱さや無力感を味わい、嘆き、今度は自分を責めようとします。
人の心、精神の働きというものはそうだろうと思うのです。
そしてそこでまた、争いや対立、排除が生まれます。
しかしそこで、悲しみや痛みを覚えて、どうにもならないことを山ほど抱えながら、そういう自分を黙って引き受けようとする時、
そういう自分で生きていこうとする時、あるいは、もし過ちを犯したら、その過ちの結果を自分で引き受けようとする時、
人は、「自分の十字架を担う」ことになるのだろうと思います。

 イエス・キリストは、今日の聖書の箇所で「自分の十字架を負ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(38節)
と語られていますが、自分の重荷を背負って生きようとすることは、崇高な精神の段階を示していると言えます。
そして、イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11章28節)と呼びかけられました。
そのような者には、神のもとでの憩いが与えられていきますのです。
そうして、イエス・キリストは、
現実のただ中でたくさんの苦労を背負っている人を、争いの段階から次の段階、「受け入れること」に導いてくれるのでしょう。

 『マタイによる福音書』10章40−42節では、直接にはイエスの弟子たちを「受け入れる」ことについて記してあり、
それがこれから人々のところに派遣される弟子たちを励まし慰めるものとなることが書いてあります。
異なったものや異質のものを受け入れることは、人間精神の最高の段階でもあります。

 20世紀を代表するアメリカの神学者であったR.ニーバー(Reinhold Niebuhr 1892-1971)の
「神よ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの心の静けさを、
     変えることができるものについては、それを変えるだけの勇気を、
     そして、変えることができるものと変えることができないものを見分ける知恵を、我らに与えたまえ」
という祈りは、大変有名ですが、人間は生物学的にも生理学的にも自分とは異質なものを本能的に排除しようとするところがありますから、
自分とは異なったもの、変えることができないものを受け入れがたいところがあります。

 人間は理性的であると同時に感情的でもある生物ですから、
自然の感情では自分とは異なるものや馴染みのないものを受け入れられないところを抱えています。
そこで争いも葛藤も起こり、また、重荷も発生します。
だからそれだけに、「受け入れること」は、人間の崇高な精神の段階なのです。
そしてまた、それだけに、他者を受け入れて自分の隣人とすることは、
人間が自然発生的にできることではなく、神の愛に基づくものにほかならないのです。
愛の崇高さは異質なものを受け入れるところにあり、
神が自らを十字架のかけてまで御自分の意に反する罪ある者を愛されたというキリストの計り知ることができない深い愛が、
その最も崇高な姿を私たちに示すものなのです。

 ただ、その神の愛であるキリストが十字架にかけられたように、
愛の業は、その精神が崇高であればあるほど、現実の中では多くの苦労を生みますし、目に見えて報われるということから遠くにあります。

 『ルカによる福音書』10章に、有名な「善きサマリヤ人のたとえ」というのがあります。
強盗に襲われて傷つき倒れた人を、周囲の一般の人たちからは軽蔑されていたサマリヤ人だけが助け、
彼の手当をして宿屋にまで運び、その費用の全額を負担したというお話しです。

 しかし、この傷ついた人を助けたサマリヤ人が、
その後、現実に報われて、たとえば助けたユダヤ人から感謝されたとか、やがて彼に対する軽蔑や差別が止んだりしたかというと、
お話しは、サマリヤ人が強盗に襲われた人を助けたというところで終わっています。
それは、この「善きサマリヤ人」が行ったような業が「天に宝を積むような業」だったからではないでしょうか。

 イエス・キリストは、ほかの所で「あなたがたの宝を天に積みなさい」ということを教えられていますが、
崇高愛の精神に基づく愛の業は、「小さい者のひとりに、冷たい水一杯でも飲ませる」(42節)ような愛の業は、
天に宝を積むような業」であり、だからこそ、「善きサマリヤ人」の業の結果は目に見えないものとなり、
それ故にこそまた、それを行う人に本当の豊かなものをもたらしてくれるのです。

 冷たい水一杯を飲ませることは、大金を捧げることと比べれば、僅かなことです。
しかし、実際に自分と異なる者にそれをしようとしたとき、
とまどいや葛藤、「他の人から自分はどう見えているのか」が気になり、実行することが難しいのではないでしょうか。
また、実際にそれをすることができても、お返しが来るとは限りません。
「小さい者」とは「お返しができないもの」という意味です。
お返しをするだけの能力がない、それは経済的にそういう場合もありましょうし、
あるいは冷たい水一杯を受けたことに気付いてない場合や、「余計なことをして」と言われる可能性もあります。
感謝の言葉すらないかもしれない。

お返しを気にせず、気付かれることがなくても、相手を愛し続ける。
それは、イエス・キリストが私たちになしてくださった愛そのものです。
イエスの愛は、十字架上で苦しみ、死ぬということによって成し遂げられました。
その救いの意味を、しかし、私たちは常に実感を持って受け入れることは難しいのではないでしょうか。
人生のある時、自分がどん底にいる時にイエス様の十字架の意味が分かっても、その苦難が過ぎ去ると、
十字架が一体何の意味を持つのか、自分と関わりのあることとして実感できなくなってくるのではないでしょうか。
しかし、私たちが神さまの愛(十字架)の意味に気付く・気付かないにかかわらず、神さまはイエスさまをとおして、私たちを愛し抜かれる。
この愛が基盤にあるから、私たちもまた、他者との出会いにおいて葛藤を抱えつつ、自分の十字架を担い、
自分と異なる他者を受け入れることができるようになります。
神さまの愛は、私たちをそのような者に変えていきます。
たとえ私たちが自覚していなくても。

 善きサマリア人は、時がよくても悪くても、結果がうまくいってもいかなくても、
そのようなこととは無関係に、黙々と天に宝を積んで、間違えることなくまっすぐに心豊かに生きていきます。
そして、そこで初めて現実の他者を受け入れることが可能となり、平安のうちに生きることが可能となるのです。

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