≪メッセージの要旨≫ 2017年 8月 20日 聖霊降臨後第11主日
聖書 : マタイによる福音書 13章 44〜52節
説教 : 『 神は身近な存在 』 高塚 郁男 牧師
1.神が自分のすぐそばにいることが本当に分るのでしょうか。
2.今日の「マタイによる福音書」13章44節以下は「天の国」のたとえです。
イエスは三つのたとえを使って「天の国」がどのようなものか教えています。
第一は、
「畑に宝が隠されている。 見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」
ようなものだと言います。
「持ち物をすっかり売り払って」と書いてありますから、全財産をつぎ込んでも買い取るほど素晴らしいものが「天の国」です。
第二も同じような譬えです。
「天の国」は「商人が良い真珠を探している。 高価な真珠を見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」
と言う譬えです。
ここにも「持ち物をすっかり売り払って」と言う第一の譬えと同じ言葉が使われています。
「天の国」は全財産を使ってでも手に入れるほど高価のものです。
そのようなものがあったら私たちも手に入れたいものです。
3.この譬えは「天の国」についてですし、イエス・キリストが教えているのですから、
51節以下に「弟子たち」にはすぐわかったとあるように、信仰があれば「天の国のすばらしさ」がどういうものかすぐ分ります。
4.信仰とは具体的にはどういうことでしょうか?
信仰に生きた人たちの生き様というか、信仰を持った人がどのように生きているかを知ることによって、信仰がどういうものか分かります。
50年も前ですが、私が神学校の頃、社会福祉の時間で、東京の郊外東村山市にある多摩全生園で訓練を受けたことがあります。
その施設は特にキリスト教には関係なく国の施設で、ハンセン氏病の大きな施設です。
今では建物もすっかり建て替えられ立派になっています。
その頃は、隔離病棟ですから、患者は殆ど外に出られません。
敷地内には郵便局もあり小さな村のような感じでした。
ハンセン氏病と診断された300人程の患者が収容されていました。
4畳半の部屋に一人ひとり住んでおり、意外と多くの方が聖書を学んでいました。
そこに、忘れられない一人の方がおられました。
両方の目がえぐられたようになく、鼻のでっぱりもなく、二つの穴が顔の真ん中あたりにあり、耳たぶも無く、穴だけ開いている方でした。
朝から晩まで正座して座卓の上に置かれた大きなオープンリールのテープレコーダーで聖書の勉強をしていました。
テープレコーダーの操作は手伝いの方がそばにおり、操作していました。
その方と話をしていて、信仰とはこれだ、と教えられたことがあります。
ハンセン氏病は手足の先端がマヒするだけでなく、溶けるようになくなります。
目も耳も鼻も突起のある部分が無くなりますから、見えない、何かに触れても全く感じなくなるという感覚が殆どありません。
体の器官の次から次に無くなっていきます。
その方は、
“これも無くなった、この器官も無くなったと考えると、次に考えることは死のことしかなくなります。
しかし、聖書に接して、そういう考え方が消えて行きました。
これも残っている、まだこの器官も残っていると考えると、
死のうと思っていたのが、これも残っているのだから生きているのが喜びになりました。”
と話してくれました。
5.このように言い切ることが出来るのは、神が確かに自分の為に生きていて下さることが確実に分かったからです。
キリスト教の信仰はこれです。
信仰とは、死ぬことしか考えていなかった人生が、たとえ体がだんだん滅んでいくのが分かっていても、
いや、体が弱くなり、滅んでいくことが分れば分るほど、
神が自分の中で生きていることが分り、生きていることに喜びを感じるようになることです。
神が身近におられることが分ると、生きていることが感謝に変わります。
星野富弘さんの一つの詩を紹介します。
いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが 苦しかった
いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった
6.「命が一番大切だ」と考える人にとっては「死は敵」です。
敵ですから闘わなければなりません。
闘うだけで苦しくなります。
しかし、命よりも大切なものがあり、その存在、とは神のことですが、
神の存在を知ると、命だけでなく死も与えられたと考えることが出来ます。
命だけでなく死も与えられたものになります。
自分の命が滅び、朽ちても、そこに神が共にいて下さるから、死さえも恐れなく迎えることが出来、
死さえ喜んで迎えることが出来ます。
7.アメリカにいた頃、週に何日かは病院を訪問していました。
アメリカ人のクリスチャンは日本人のクリスチャンよりも単純な信仰を持っている人が多いように思いました。
単純というのは、命を与えてくれてありがとうと素直に言えることです。
それだけでなく死も与えて下さって、死も感謝して頂きます、と言えるようになります。
余命が宣告された患者さんが訪問の際に、「死もまた有難く頂こうと思います」 と言われました。
彼女は神が自分と共にいることが分っているので、「死を頂いてありがとう」 と素直に言えたのでしょう。
8.「不安とか恐れは未来からやって来る」と言います。
その最たるものが誰にでもいつかは起こり得る「死」です。
多くの人は死への恐怖や不安を取り除くことが出来ません。
しかし、「死も与えられたものだから喜んで頂こう」 と言えるのは、
自分が死んだ時も神が身近にいて下さることを信じているので、死は恐ろしい存在ではありません。
9.「命よりも尊いもの」、それは神が自分のそばにいて下さるという単純な信仰です。
「命が一番大切だ」と思っている人は、相当無理をし、
時には、星野富弘さんが言うように、「生きるのが苦しく」なってしまいます。
しかし、
「命より大切なものがあることを知った日、生きているのが嬉しかった」 と自分の信仰体験を語るように、
神が身近な存在であること知り、神に全てを託し、
神から全てを頂いたのだから死をも感謝出来る信仰を身に着けると、この世で生きることが嬉しくなります。