≪メッセージの要旨≫  2017年  8月 6日   聖霊降臨後第9主日


        
聖書 : マタイによる福音書     13章  1〜 9節

        
説教 :  『 いつも一緒のイエス 』    高塚 郁男 牧師


1.何をするにも否定的に考える人もいれば、肯定的に考えをする人もいます。
  聖書のみ言葉は祈れば何でもすぐに聴かれるという即効性がありませんが、
  最後は人を助け、救い、立ち上がらせる力があります。
  聖書は人を肯定的に扱います。
  この肯定的な教えはキリスト教の特徴と言えます。


2.「福音」と言う言葉があります。
  「良い知らせ」と言う意味です。
  日常生活の中でも良く使われます。
  しかし、これは極めてキリスト教的な言葉です。
  イエス・キリストが神の子として生まれ、
  罪の中で苦しみ悩み、疎外されている人たちに救いをもたらす良い知らせと言う意味です。
  キリスト教は私たち人間を苦しみから解放し、
  弱い切った人間を回復させ、もう一度力を与えてくれますので、
  キリスト教の最も特徴ある「福音」は肯定的な意味になります。


3.旧約聖書のヨブ記はご存知の通り、
  彼は家族にも財産にも恵まれ、悪を避け、誠実で信仰篤く、類まれな人物でした。
  そんな彼に神から遣わされたサタンが現れ、一夜にして全てを失います。
  ただ、神はサタンに彼の命だけは取ってはいけないと命じます。
  妻の支えも失い、友人たちの言葉も聞き入れず、神にも口答えし文句を言います。
  文句を言い続けながらも、しかしヨブの方から神を断つことはありません。
  どんなに痛めつけられても、どんなに口答えしても神との関係は保っていました。
  ヨブ記の意義はここにあります。
  最後には、ヨブは神に負けたかのように神を認め、自分の非を悔います。
  「それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」
  神は、その結果、ヨブに以前にも増して財産を二倍にし、祝福します。
  ヨブの人生は終始否定的で暗いようですが、最後は肯定されて終わります。


4.そもそも聖書は肯定的で全てを良いように導びきます。
  天地創造の話を思い出して下さい。
  創世記1章を読んでいると、神が一つの物を想像し終えその日が終わると、
  「神はこれを見て良しとされた」(1:4、10,13、18、21、25)とあります。
  そして、1章の終わり、天地創造の終わりに
  「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。 
     見よ、それは極めて良かった
」(1:31) とあります。
  これを見てもわかるように、聖書は天地創造からすべてを「良し」とされています。
  肯定です。
  悪いものを強調するのでなく、 
  たとえ悪いものでも良いものに変えていこうとする肯定的な教えが聖書です。


5.もう一つ聖書から肯定的な話をします。
  新約聖書から引用します。
  マタイによる福音書1章にはイエスの誕生の話が出ています。
  イエスが生まれるに当たり、主なる神はイエスに「インマヌエル」と言う名前を与えます。
  「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
      その名はインマヌエルと呼ばれる。』
      その名は、『神は我々と共におられる』という意味である
」(マタイ1:23)。
  イエスは誕生前から我々人間と共に一緒にいて下さるという名前を与えられました。
  イエスはどんな時にも、
  私たち人間が弱い時にもいつも一緒にいて下さる方として生まれたことになります。
  この「マタイによる福音書」は
  「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20) という言葉で締めくくっています。
  「マタイによる福音書」では神から遣わされた主イエスは、私たちと共にいるということがテーマです。
  主イエスは私たちと共にいて、私たちを助け、私たちを救おうとされるお方です。
  自分から神から離れ、救いようのない人間を、最後まで救おうと絶えず共にいて下さることは、
  私たち罪ある人間にとって、これほどありがたいことはありません。
  これほど私たちを認め、支えて下さる方が共にいて下さるとは大いなる「福音」です。


6.新約聖書全体の一番終わり「ヨハネの黙示録」22章21節には
  「主イエスの恵みが、すべてのものと共にあるように」 と言う言葉があります。
  聖書全体の締めくくりの言葉が、
  主イエスが私たちに与えて下さる恵みが共にあるようにと祝福され、祈られています。
  救いようのない弱い私たちにとっては私たちを認め、肯定し、話さないお方が私たちと共にいて下さるという、
  何と聖書は肯定的な教えなのでしょうか。


7.今日の福音書の「種をまく人のたとえ」の種を撒く農夫はイエスのことを指しています。
  聖地と呼ばれる地方では農夫は種を手で一掴みし、それを四方にばら撒き、整地し、時期が来たら収穫します。
  実を結ばない無駄な種もたくさんありますが、農夫は実りを信じて撒き続けます。
  実際収穫はかなり少ししかありません。
  イエスの宣教も同じです。
  どんなに一生懸命宣教しても、神のみ言葉を聞き入れてくれる人はほんの少しです。
  それでも多くの人が神のみ言葉を聞いてくれることを信じて宣教し続けます。
  たとえ実りが少なくても、一人でも多くの人が聞いてくれることを信じて種を撒き、収穫を待ち続けます。


8.教会の伝道も同じです。教会に来る人はたとえ少なくても、いつかも来てくれると信じて伝道し続けます。
  今来なくてもいつかは来てくれると肯定的に待ち続けて伝道し続けます。
  来ないことを嘆くことは許されません。
  諦めてもいけません。
  種まきをするのは主イエスであり神です。
  私たちは主イエスの弟子として、主がなされたことを同じようにするだけです。
  たとえ収穫が少なくても肯定的に待ち続け、伝道をします。
  結果はどうあれ主なる神がいつも私たちと共にいてくれるのですから伝道を続けるだけです。
  いつかは時が来て、 
  30倍になり、60倍になり、百倍の人が教会に来ることを信じて今日も私たちは礼拝を守っています。
  今、正に、ここに主イエスが私たちと共にいて下さいますから
  今は少なくても礼拝を守り続けて行きましょう。

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