≪メッセージの要旨≫ 2017年 9月 17日 聖霊降臨後第15主日
聖書 : マタイによる福音書 16章 13〜20節
説教 : 『 人間の使命 』 高塚 郁男 牧師
1.イエス・キリストは病気を治し、人々から疎外された人たちに寄り添い、苦しむ人たちに神の言葉を教え・伝え歩きました。
次の日には別の村に行って前日と同じように人々に語り、癒し、手を差し伸べています。
このようなイエス・キリストの活動を知ると、私たちももっと真剣に伝道に励まなければならないと痛感します。
2.イエスに従う人は日に日に増えて行きました。
しかし、イエスはこの段階では、集まって来た人たちをまとめて組織を作り、教会という集団を作ろうとはしていません。
ただ、いずれ、今、私たちが考えるような教会を建てようと考えていたように思います。今日のテキストを見るとそのことが推測出来ます。
3.イエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うか」(16:15)と尋ねます。
その問いに弟子たちを代表するペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えました。
この答えは完璧でした。
イエスは
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
わたしは言っておく。
あなたはペトロ(岩という意味)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(16:17〜18)と断言します。
今、私たちはペトロを、イエスの弟子の筆頭格として当然のように呼びますが、
彼はもともとシモン・バルヨナと言う名前の極く普通の人とそん色ない一人の漁師でした。
それが、この場面でイエスはヨナの子シモンという生またときにつけられた名前を「ペトロ=岩」と言う特別な名前で呼んでいます。
彼の答えがあまりにも素晴らしく完璧でしたので、歴史的に世界的に、今でも残る「ペトロ」の名前を与え、
しかも、彼を土台として、その上に「教会を建てる」とまで言われました。
4.使徒言行録を見ますと、イエスが十字架に付けられ、復活された後、
キリストを信じる人たちがどれ程のスピードで増えて行ったか記されています。
最初の記録は、イエスの死後、イエス・キリストを神の子・救い主と信じる人々は120人でした(使徒言行録1:15)。
続いてイエスを裏切ったユダに代わってマティアが12人の弟子の一人に加えられ、
直後に、弟子たちは精霊降臨という不思議な出来事に遭います。
すると彼らには「力」が付与され、勇躍立ち上がり、堂々とイエスの教えを人々に伝え始めました。
その熱意は驚くものだったこと、120人は直ちに3千人にふくれあがり(使徒言行録2:41)、
更に男性だけでも5千人になっています(同4:4)。
この間、何日ぐらいかかっているかはっきり記録されていませんが、非常に短期間だったことは確かです。
弟子たちは更に大胆に伝道を続け、弟子以外にも中心になる人々が選ばれたり、
その中の一人ステファノという信仰篤い聖霊に満ちた人がエルサレムで説教してりしています。
その頃には、エルサレムに「教会」が組織されていました(同6章)。
ステファノの説教に対してユダヤ教徒たちは彼を迫害し逮捕しただけでなく、エルサレムに組織されていた教会の迫害も起きています。
かなりの数のキリスト信者がいたことの証拠です。
教えはエルサレムだけでなく、パウロの登場で地中海沿岸地方に神の教えは広まり、
使徒言行録11章を読むと、アンティオキアで初めてキリストを信じる人たちがクリスチャンと呼ばれるようになったと記されています(同11:26)。
5.キリスト教の歴史を見ると不思議な形で発展しています。
消滅の危機も何度もありました。
十字軍も破れ、教会は二つに分裂したり、宗教改革を経験したり、それでも世界の多くの国に浸透して行きます。
多くの派が出現し、その都度大きくなり、現在に至っています。
分裂を繰り返しながら教会が大きくなって行ったのは、まだ使命が残っているからです。
もっと多くの人々を父なる神の愛のもとに集め、平和を実現し、
そして世界中の人たちが手を固く結びながら世の終わりを迎えなければならない使命を持っています。
私たちがここで礼拝を守っているのも、教会の使命を持っているからです。
6.教会が生まれ、歴史を作り、存在する意味があり、与えられた使命を全うするまでは消滅しはいと確信しています。
私たち人間も同じだと思っています。
与えられた使命を全うするまでは私たちも果てることはないと思っています。
体が強くなくても相当長生きしている人はたくさんいす。
その人には、はっきりしたものでなくても、
まだお前にはこの世で生きる使命が残っているのだから生きなさいと神の命令があるから生きてられます。
障碍を負いながら生き続ける人もいます。
その人にはその人の生きる意味がありますし、その人は自分では自覚していなくても生きる使命があります。
7.豊橋にいた頃、一人の重度の身体障碍者を紹介されました。
50歳を超えた男性の方でした。
体はエビのように反ったままで、全く体を曲げることは出来ません。
おなかを下に、頭と足は上に反ったままで、食事は90歳近いお母さんがスプーンで口に入れていました。
口は普通に話せましたので、彼の周りにいつも数人の人が話に来ては何時間も話をするのが楽しみに生きていました。
お母さんはいつも、
「この子が死ぬまでは私は死ねない。 誰が世話してくれますか」
と口癖のように言っていました。翌年、彼が亡くなりました。
何と、その1週間もしないうちにお母さんは老衰で亡くなりました。
まさに、お母さんにとって、その息子さんを世話するのが使命だったようです。
息子さんが亡くなられたので、その使命を神は取り上げ、お母さんも神の身元に行かれたのでした。
8.この世のもの、教会も人間も、あるいは建物も、その使命を果たすまでは生き続けます。
使命が果たされれば自然に滅びます。
滅びるというより、神の身元に行きます。
僅かしか生きられない方もいます。
その親にとってはそんな惨いいことはないと思います。
しかし、静まって考えてみると、若くて亡くなられた方には、私たちには分からない、何か素晴らしい使命があった筈です。
命は神が与え、神が取られるのですから、
命あるものには、その使命がある限り生き続け、使命が終われば年齢に関係なく神が命を取られます。
9.私たちも教会もまだ使命が残っています。
使命の途中です。
やることがあります。
残された使命が何であるか分かりせんが、一生懸命生きるように神は導いています。
与えられた使命が終わるまで力一杯頑張って生きましょう。