≪メッセージの要旨≫  2018年   1月 14日   主の洗礼日


        
聖書 : マルコによる福音書     1章  9〜11節

        
説教 :  『 神との絆 』    高塚 郁男 牧師


1.イエス・キリスト、洗礼を受ける: 
                     
 1)洗礼者ヨハネはさしずめ時の人でした。
   彼は大勢の人に知られ極めて有名な人でした。
   今日のテキストに
   「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:5)
   とありますから、彼のことを知らない人は殆どいなかったと言えます。
   洗礼者ヨハネは、罪の告白を前提として洗礼を授けていました。
   旧約聖書を神の言葉と信じ、新約聖書を認めていないユダヤ人も洗礼という儀式は行っていました。
   彼らの洗礼も罪の告白、つまり悪や罪を清める為のもので、
   「エルサレムよ、あなたの心の悪を洗い去って救われよ」とエレミヤ4:14などにも記されており、
   またイザヤ書は救い主が来られる為に
   「主のために、荒れ野に道を整え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ
   (旧約聖書イザヤ書40:3、新約聖書マルコ1:3)
   とあるように、洗礼を受けるには、救い主が来るための道を備えておく必要がありました。
   罪を告白し、心も清めて準備しなければなりません。

 2)イエスは罪を犯していません。
   ですから、イエス自身が受けた洗礼には罪の告白はありません。
   そこに私たちの洗礼とイエスが受けられた洗礼の違いがあります。
   私たちの洗礼には罪の告白が伴います。
   自分が冒した罪を神のみ前に認めて、神を受け入れることが不可欠です。
   神を受け入れなかった過去の罪の赦しを頂いて洗礼が可能になります。
   イエスは神の子であり救い主=キリストです。
   私たちは罪の子です。

 3)神の子・救い主イエス・キリストが洗礼を受け、
   「水の中から上がれるとすぐ、天が裂けて、“霊”が鳩のように御自分の上に降って来るのを、御覧になった」(マル1:10)。
   イエスの洗礼には罪の告白はありませんでしたが、
   天が裂けて鳩のように降ってくるのがイエスには見えました。
   私たちの洗礼にはそのような現象は起こりません。
   何故そのような違いがあるのでそうか。


2.イエスの使命

 1)イエスは神の子であり救い主です。
   その為の使命があります。
   今日の第二のテキスト使徒言行録10章38節に
   「神は、聖霊と力によってこの方(=イエス・キリスト)を油注がれた者(=救い主=キリスト」となさいました。
      イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しまれている人たちをすべていやされたのですが、
      それは、神がイエスとご一緒だったからです
」 とあります。
   救い主イエス・キリストは方々を巡り歩き、人々を助ける為に来られました。
   助けることが出来たのは神がご一緒だったからです。
   イエスが洗礼を受けられた時、
   天が裂け、鳩のようなものが彼の上に降って来たのは神が一緒にいることの証明です。
   その為に、
   私たちではたとえ罪の告白をし洗礼を受けても天が裂けて鳩のようなものが降って来るのは見えないのです。
   それが出来たのはイエス・キリストだけです。 

 2)更に第1テキストに注目しましょう。
   イザヤ書42章です。
   これは「主の僕の歌」として有名な箇所です。
   1節に「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
          わたしが選び喜びを迎える者を
」 という文章があります。
   ここに出てくる「わたしの僕」が誰であるか諸説があり決定的なことは言えません。
   「わたし」は神のことですが「僕」が誰であるかで以前から論争されています。
   ユダヤ人たちは新約聖書を神の書物とは認めませんからイエスを救い主キリストとして認めません。
   ですからイザヤ書42章1節で預言されている「僕」は「イスラエルの民」だと断言します。
   しかし、救い主を「民」や「民族」と考えることは難しいです。
   この「僕」は個人であり「救い主イエス・キリスト」と理解するのが極めてあり得ることです。
   2節に「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」と言う表現は
   イエス・キリストの受難を的確に表しています。
   イエスは十字架につけられたとき、叫ばず、静かに使命を全うし、命を父なる神に委ねています。

 3)3節に「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」とあります。
   「傷ついた葦」とは私たちです。
   「暗くなってゆく灯心」も私たちです。
   私たちの生涯を言い表しています。
   この世に順風満帆の人はいたとしてもほんの少しです。
   多くの人は波瀾万丈です。
   苦しみの連続です。
   病から立ち上がれません。
   病院に行くと分かります。
   どうしてこんなに病気の人が多いのだろうかと。
   いつも人は苦しみ、病に苦しみ、悩みの中で生きています。
   いう人たちの方が遥かに多いのです。
   死にたい人も大勢います。
   神がこういう人を創造したのですから、こういう人を救うために救い主イエス・キリストを送って下さいました。
   それが主イエス・キリストの使命です。
   イエス・キリストは自分が使命を達成させるために、
   まず洗礼を受け、神と共にいることを確認し、神との絆をはっきりと見定めました。
   神は天を裂き、天から鳩のような力をイエスに与えました。


3.神との絆

 1)私たちは主イエス・キリストを知り、罪を告白し、
   イエスを救い主キリストとして受け入れ、イエス・キリストと同じように洗礼を受けます。
   主に倣います。
   その主イエス・キリストを私たちが信じる時、主イエスは救い主として私たちを神と結ばせてくれます。
   洗礼を受けることによって私たちも神との絆を得ることが出来ます。
   神との絆の中で生きている私たちは、たとえ苦しくても、病気の中で悩み闘っていようとも、
   神の絆の中で生きることが出来ます。 

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