≪メッセージの要旨≫ 2018年 10月 21日 聖霊降臨後第22主日
聖書 : マルコによる福音書 10章 17〜31節
説教 : 『 神にはできる 』 後藤 由起 牧師
「あなたに欠けているものが一つある」。
イエス様の言葉です。
しかしそのときのイエス様の目は、裁きではなく慈しみとして私たちに向けられています。
今日の福音書の箇所で、ある人がイエス様に
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」
と質問します。
イエス様の答えは、当時の誰もが知っていた有名な戒めでした。
「先生、そういうことはみな、子供のときから守ってきました」
と言う彼を、イエス様は慈しんでいわれました。
「あなたに欠けているものが一つある。
行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。
そうすれば、天に富を積むことになる。
それから、わたしに従いなさい。」
この人は悲しみながら去っていきました。
たくさんの財産を持っていたからです。
これを見てイエス様はこう言われています。
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。
らくだが針の穴を通るほうがまだやさしい。」
確かにこの基準で見たら、私たちの中にも、救われる人はいません。
しかし、イエス様はこうも言われます。
「人間にできることではないが、神にはできる。
神は何でもできるからだ。」
つまり、私たちがとても神様に従うことのできるような者ではないことを神様はすでにご存知だということです。
らくだが針の穴を通れるかというと、答えはもう決まっています。
通れないのです。
ですから、私たちが救われるには神様からの道しかありません。
ここで大事なことは、イエス様はこの人を去らせるままにして、見捨てておられるのではないということです。
この人にとって重要なことは、
ああ自分は到底イエス様の言葉に従えずに立ち去っていくほかない人間だということを、
文字通り身をもって知らされたことです。
それこそが、
「私は律法を全て正しく守っています」
と自負していたこの人に欠けていることでした。
「あなたに欠けているものが一つある」。
それは、自分は神様の助けが必要な罪人であるということに気づくこと、
そしてこんな自分のためにイエス様の救いが用意されているのだということを知ることです。
だからこそここでイエス様の目は、裁きではなく慈しみとして彼に向けられているのです。
すると、イエス様の弟子の一人であるペトロはこう言います。
「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」。
これに対しイエス様は確かに、
「わたしのためまた福音のために家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも百倍を受ける」
と言われています。
けれども大切なのは続いているこの言葉です。
「しかし、先にいる多くの者があとになり、あとにいる多くの者が先になる」。
この 「あとの者」 とは誰のことでしょうか。
「私はこうしてあなたに従っています」
というペトロは、自分は先にいる者だと思っています。
それに対して、先ほどの気を落として悲しみながらイエス様のもとを去っていった人こそ、
「あとの者」 なのではないでしょうか。
この箇所のすぐあとで、
イエス様はご自分がまもなく十字架にはり付けにされて殺される、ということを予告しておられます。
それが重要です。
ここにいるわたしたちはみな、イエス様の言葉にとても従える者ではありません。
けれども、そんなあとの者である私たちを救うために
イエス様が身代わりに十字架にかかられたのだということを聖書は示そうとしています。
財産どころかご自分の命すら与えるという方法で、イエス様は、
神は何でも出来る、そんなあなたを救うことがおできになる、ということを示されたのです。
ペトロが
「私たちはこうしてイエス様に従って来ました」
と言っていたそのとき、またこのお金持ちの男が
「私はどうしたら救われるでしょうか」
と聞いていたとき、彼らの心は自分が救われることだけに向いていました。
しかしイエス様の勧めはモーセの十戒、
つまり周りの人と共に生きることであり、貧しい人々に心を向けることでした。
それが天に富を積むことなのです。
自分はあとの者だと知り、神様の救いに頼らなければ何もできない者だと知って、へりくだって生きることです。
自分には神の助けが必要であることを認め、神様に頼り委ねること。
これこそ、あれこれ思い煩い、心を騒がせている私たちにイエス様が招いておられる慈しみです。
私たちは今週一週間、何か困難にであったとき、イエス・キリストに信頼いたしましょう。
イエス様こそが、
わたしを救うことがおできになるお方であることを信頼して過ごして参りましょう。