≪メッセージの要旨≫ 2018年 11月 18日 聖霊降臨後第26主日
聖書 : マルコによる福音書 12章 41〜44節
説教 : 『 神の目線 』 後藤 由起 牧師
どんな時にも、全能の神様の目が私たちの上に注がれていること。
これが今朝、聖書が教えていることです。
日常の中でこの世の働きに従事している時も、
たとえ自分の力の及ばないように思える試練の時でも、誰にも顧みられず報いられないように思える時にもです。
この神様に全て委ねることができるということが、私たちの信仰です。
神殿の賽銭箱に、大勢のお金持ちがたくさん入れて、人々の注目と賞賛を集めていました。
そこにまずしい女性がやってきて、リーストコインをささげます。
それを見てイエス様は言われました。
「はっきり言っておく。
この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、
この人は、乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れたからである。」
しかし実際には、この人は困窮していたのではないでしょうか。
旧約聖書の列王記の話にあったように、
「これを食べてしまえば死ぬのを待つばかり」
と考えたのでしょうか。
実はこの直前に、イエス様は律法学者たちを非難しておられます。
律法には、夫をなくした女性や親をなくした子どもたちを保護するための規定がありました。
社会的に弱い立場の人々への保護と配慮をすること、
これが主を信じるイスラエルの民の信仰だったはずでした。
しかし当時のユダヤ教では、律法学者たちが見せかけの賞賛を追い求めていただけで、
弱い立場の人々は社会の片隅に追いやられていました。
神殿にやってきたこの貧しい女性こそ、社会の罪、人々の罪の犠牲となっていた人だったのです。
そして重要なことは、
生活費がもう手元に残っていない、もうどうしようもなくなった時、この人がとった行動は、
残された最後のお金を握りしめて神殿に向かうことだったということです。
孤独な貧しい女性が最後に頼るところとして神様のもとにやって来た時、イエス様は確かに目をとめられます。
今日、聖書が教えていることはこういうことです。
わたしたちには、自分の力ではどうしようもない、絶望したときになお向かうことのできる場所があります。
誰にも目を留められない彼女に、イエス様の目線は確かに注がれています。
そして聖書は、この後この女性一人の行く末を記すのではなくて、
この女性を覚えてくださったお方、主イエスキリストの出来事を記していきます。
彼女がどうなったのかというかわりに聖書が記しているのは、
彼女に目をとめたイエス様が十字架へと向かっていく姿だということです。
十字架にかかられたイエス様こそ、この女性の苦しみや悲しみとまさに一体となっておられたからです。
イエス様の十字架の上での叫び、
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(15:34)
こそ、この女性の心だったのです。
誰も目を留めなかったこの人とともに十字架を背負い、
そしてイエス様は、その十字架の中にも神様の助けが及んでいくことを復活によって示されます。
私たちが、自分の力の届かないような試練に出会う時、
この女性の物語でいえば最後のレプトン銅貨を捧げた時、しかしイエス様の力は、そこから働いていきます。
神の助けはどこにあるのかというような時、その時にも実はイエス様はともにおられます。
そしてこのイエス様の十字架から、キリスト者たちが生まれます。
この女性のような人々とともに生きる人々が生まれたのです。
使徒言行録には、人々が助け合って生きた様子が記されています。
これが教会です。
この女性が家に帰った後のことを聖書は記しません。
現実は何も変わらない、と思っていたかもしれません。
しかし実際は大きく変わっています。
神の目が注がれていることです。
そのことに気づくのが信仰です。
あきらめることと神にゆだねることの違いは、そこに希望があることです。
私たちの一週間を、イエス様はしっかりと受け止めておられます。
神の目線が私たちの上に注がれているからです。