≪メッセージの要旨≫ 2018年 12月 2日 待降節第1主日
聖書 : ルカによる福音書 19章 28〜40節
説教 : 『 未来も主の手の中に 』 後藤 由起 牧師
アドベントに入り、教会の暦では新しい一年が始まりました。
過ぎ去った時を振り返る時、本当にいろいろな出来事があり、思いがけないこともありました。
また心のうちには、将来について思い悩んだり、不安になることもあります。
そんな私たちがイエス様をお迎えするとはどのようなことか、聖書から聞いてまいりましょう。
今朝の福音書には、首都エルサレムに来られたイエス様を人々が迎えた時のことが書かれています。
イエス様は二人の弟子を使いに出し、村から子ろばを借りてくるように言われますが、
あたかも見てきたかのような言葉です。
そして弟子たちがイエス様の言葉に従っていくとき、彼らはすべてがイエス様の言葉通りであったことを経験します。
これから先の未知の世界は、実はすでにイエス様の支配の中にあったということです。
大の大人がろばに乗って行進する姿は滑稽であったかもしれません。
なぜイエス様がろばに乗ってこられたのかというと、
旧約聖書のゼカリヤ書にこういう言葉が記されているからでした。
「見よ、あなたの王がくる。
彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る、
雌ろばの子であるろばに乗って。」
イエス様をお迎えすることこそ、この古い預言の成就でした。
こうして聖書は、私たちがクリスマスに備えるとはどういうことなのかを教えようとしているのです。
第一に、あなたの「王」を迎えるということです。
王とは、私たちの上に力を及ぼします。
では、現在、私たちの上に力を及ぼしているものとは何でしょうか。
私たち自身の思いや計画はもちろんですが、
実際には家庭の事情であったり健康状態であったり、社会の現実であったりというものに左右されます。
不安や恐れに駆られます。
しかしながらイエス様をお迎えするとは、それら以上に力のある王を迎えるということです。
信仰とは、この世の心配事や不安に支配されている私たちの上に、
自分を超えた主イエス様の支配を抱き、お委ねするということでもあります。
第二に、この王は高ぶることのないお方であると聖書は教えています。
当時、権力をふるっていたのはローマ帝国の軍事力でした。
しかしながらイエス様は、
権力の象徴である立派な馬ではなく、人々の荷物を背負うろばに乗って来られました。
人々のために働くろばこそ、イエス様がどういうお方かを表しています。
それは、人々の重荷を背負って十字架にお付きになるというイエス様の死を指し示しています。
つまり、ろばに乗ってこられたイエス様をお迎えするとは、
今自分の心を支配している重荷をイエス様に差し出すということです。
イエス様こそが、
私たちの未来を導いてくださる王であり、そして私たちの重荷を背負ってくださるお方であること。
そのイエス様を、自分自身の日々の歩みの中にお迎えするのがアドベントです。
イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入られると、人々は自分の服を道に敷いてイエス様を迎えます。
ところが、
このとき熱狂してイエス様を迎えたエルサレムの人々は、わずか一週間後にまた熱狂して騒ぐことになります。
しかもそれは、「この男を十字架につけよ」という叫びです。
この変化はなぜ起こったのでしょうか。
エルサレムの人々が期待した救い主とは、ローマ帝国からイスラエルを解放させる、政治的な王でした。
けれども、イエス様はこの世の権力を振るう王ではありませんでした。
自分の願い通りに動いてくれるお方ではなく、私たちを導く神の子です。
そんなイエス様は、人々には無力に思えたのです。
人々はイエス様のいない生活、この世の力に支配される生活を選びます。
わずか一週間後に、人々はイエス様とともに歩むことをやめてしまったのです。
ではクリスマスを迎えようとする私たちは、どうでしょうか。
クリスマスを迎えるとは、
この世の様々な力に動かされるのではなく、
さらに力ある主イエス・キリストを王として迎え、信仰を持って生きることです。
不安に駆られ、思い煩いに支配されそうになる毎日です。
しかしそんな中を生きる私たちがなすべきアドベントの備えは、
イエス様を自分の王として受け入れ、信頼することです。
歩んで行く人生の道にイエス様をお迎えし、
私たちにとって未知の未来でも、全てはこのお方のうちにあることを信頼します。
私たちの重荷を担って共に歩んでくださる方を毎日の中にお迎えして、
今週もまた、平安のうちに信仰の道をすすんで参りましょう。