2018年 12月 23日 待降節第4主日・クリスマス礼拝
聖書 : ヨハネによる福音書 1章 1〜14節
説教 : 『 もう暗闇ではない 』 後藤 由起 牧師
今年は皆様にとってどんなクリスマス、そしてどんな一年だったでしょうか。
日本全体に目を向ければ、猛暑、地震、豪雨、台風など、災害が続いた年でした。
世界では、中米から歩いてアメリカに入ろうとしている移民や難民の人々がいます。
最初のクリスマスの出来事で、
泊まるところが無くさまよい歩く貧しいマリアとヨセフの姿は、
不安定な世界を生きる私たちをまるで象徴するかのようにも思えてきます。
この世を覆う巨大な闇の中で、安心してとどまることもできず、恐れている人間の姿です。
そんな私たちがクリスマスを迎えた今日、ヨハネによる福音書はこのように記します。
光は暗闇の中に輝いている・・。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
ここには二つのことが書かれています。
まず、この世には暗闇がある、ということです。
この暗闇は、いろいろな形で私たち人間を覆います。
罪や悪、それらから引き起こされる、戦争や虐待であったり、格差であったり、
人が神様からいただいた命を安心して全うできなくするような力です。
さらには、私たちひとりひとりの心のうちにも、まるで暗闇のような部分があるのではないでしょうか。
しかしながら聖書が教える二つ目のことは、
クリスマスとはそんな暗闇の中に輝く光が来た出来事であるということです。
聖書は、この光こそ神の子、イエス・キリストであると言い、この
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。
とあります。
ここで注意したいことは、「光は暗闇の中で輝いていた」 ではないということです。
光は暗闇の中で、今、「輝いている」のです。
私たちが今、自分は闇の中にいるようなものだ、と思っていても、
イエス・キリストという光は事実、すでに私たちを照らしているのだということです。
この光りが私たちを照らしているとはどういうことでしょうか。
ヨハネによる福音書には、
聖書の他の箇所に出てくるようなマリヤやヨセフ、羊飼や博士たちは登場しません。
ここで出てくるのは 「言」 という特徴的な書き方です。
このヨハネによる福音書の書き出しは、実は旧約聖書の創世記の書き出しと対応している箇所です。
「初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。
「光あれ」。
こうして、光があった。」
世界のはじめ、やはり闇が覆っていました。
しかしその闇の中に、神様が「光あれ」と言葉をかけられると、本当に光ができます。
ヘブライ語で「歴史、出来事」という単語と「言葉」という単語が同じなのは、
神様の言葉が本当に出来事になるからです。
この、闇の中に光ができるという神様の言葉が、
人間の姿になってこられたのがイエス・キリストだと聖書は言います。
それはこういうことです。
私たちにもまた、闇が覆っています。
けれども私たちがクリスマスを迎えたということは、
そういう闇の中に光ができる神様の言葉が私たちにもかけられている、ということです。
「あなたに光あれ」と。
さらにここで、「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、
これはもともと「暗闇は光に打ち勝つことが出来なかった」という言葉です。
どんなに暗闇が深くても、イエス様の力がそこを光に変えて行くのです。
聖書は、
私たちの毎日にすでにイエス様の光が照っているということを、たった一言で表しています。
クリスマスの出来事で、人々はみな同じ言葉を聞きました。
それは「恐れるな」という言葉でした。
クリスマスとは、すべての人がこの「恐れるな」を聴く日なのです。
私たち自身には、暗闇を光に変える力はありません。
しかし、暗闇のような私たちを照らすために、クリスマスにキリストは来てくださいました。
光があれば、もうそこは暗闇ではありません。
私たちの日常にはすでにイエス様という光があることを信じ、
インマヌエル、
神がともにいてくださることを信じて、クリスマスを祝いましょう。