≪メッセージの要旨≫ 2018年 4月 1日 復活祭 (イースター)
聖書 : ヨハネによる福音書 20章 1〜18節
説教 : 『 イースター 教えてもらう前と後 』 後藤 由起 牧師
最近はスーパーで売っているお菓子に
うさぎや卵がプリントされるほど、日本でも季節のイベントとしてイースターが定着するようになりました。
しかしイエス・キリストが復活されたという知らせを聞く前と後で、
私たちの毎日が何も変わらないなら、それは私たちにとってイエス様が復活しようがしまいが関係ないということになってしまいます。
今日、聖書はイースターの知らせを告げ、
これから、生きておられるイエス様を見て生きることに私たちの目を開こうとしています。
マリアは墓の外に立って泣いていた(20章11節)。
これが、マリアがイースターの出来事を教えてもらう前の状態です。
マリアはイエス様が取り去られ、どこに置かれているのかわからない、と訴えます。
この時のマリアのように、
神様がどこにおられるのかわからない、救いを見いだせないような暗闇のときをわたしたちは経験するのではないでしょうか。
しかし14節には、
(マリアが)後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。
しかし、それがイエスだとはわからなかった。
とあります。
実はイエス様は、私たちがイエス様を見出せないような時にもずっとそばにおられ、支えてくださっているのです。
ではマリアはどうしてイエス様を見つけられなかったのでしょうか。
それは彼女が、生きておられるイエス様を墓の中に探していたからです。
わたしたちもまた、イエス様を死んだ者、墓の中の力ない者としてしまい、
神様に祈ってもどうにもならないのではないかと希望を失ってしまうことはないでしょうか。
そんなマリアの目を開いたのは、その名前を親しく呼んでくださるイエス様の呼びかけでした。
かつてイエス様はこうおっしゃっていました。
5章25節、はっきり言っておく。
死んだ者が神の子の声を聞く時がくる。
今やその時である。
その声を聞いた者は生きる。
イエス様が生きておられることを教えられた後、マリアは弟子たちのところに向かい、
言います。 18節、
「私は主を見ました」。
ここで使われている「見る」という言葉は、はっきりわかる、経験する、心から見えるというような言葉です。
彼女は墓の方から向きを変え、
イエス様が生きておられること、どんなときも私たちと共におられることを見る生き方へ招かれたのです。
では、
生きておられるイエス様を見るとは、具体的にどういうことなのでしょうか。
それはまず、
私たちの毎日の上にイエス様の力が及び、そこに主のご計画が必ずあることを信じることです。
そして二つ目に、こんな罪人の私たちにイエス様の赦しがあることを信じることです。
イエス様はマリアに言われました。17節、
「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
『わたしの父であり、あなたがたの父である方、
また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
イエス様は、ご自分を裏切り、あるいは逃げ、
また「そんな人は知らない」と言った弟子たちのことをなおも「私の兄弟たち」と呼び、
さらに神様が「あなたがたの父でありあなたがたの神である」と言ってくださいます。
ここに十字架の赦しがあります。
そして三番目に、「信じる」とは「信頼して従う」ことです。
これまでのことも、今現在のことも、将来のことも、私をそのまま神様にお委ねして従っていく時、
私たちは生きておられるイエス様のお導きを見ます。
今日の旧約の箇所、イザヤ書25章は神様の救いが完成した時の将来の出来事を記しています。
25章8節、
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。
今まだ地上にあり、まだマリアのように涙にくれることがある私たちですが、
今朝イースターの知らせを聞き、イエス様が生きておられ共にいてくださることに目を開かれました。
私たちの流した涙を完全に拭ってくださる時まで、イエス様は導いてくださいます。
そしてその終わりの日の祝宴をもうここで先に実現しているのが、今日これから行われる聖餐式です。
イエス様の復活を祝い、
私たちの現実の生活のただ中にはもう、イエス様の力が及んでいることを信じて歩みましょう。