≪メッセージの要旨≫  2018年   6月 24日   聖霊降臨後第5主日 


      
聖書 : マルコによる福音書     2章 23〜28節

      
説教 :  『 土の器 』         渡邉 進 牧師



 ある安息日に、イエスが麦畑をと通って行かれると、
    弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。  
(マルコによる福音書2章23節)

 フランシスコ会訳では、
 さて、ある安息日のことであった。
    イエスが麦畑の中を通ってておられた時、
    弟子たちは道々、穂を摘み始めた。

となっているが、
分かり易いかもしれない。
今まで、
イエスの教えを巡って、当時の指導者たちとの衝突が起きた。
旧来の伝統と新しい教えとの違いが目立った。
しかしこと《安息日》に関しては見逃すわけにいかなかった。
彼らは目くじらを立て怒った。


 ファリサイ派の人々がイエスに、
 「御覧なさい、
    なぜ、彼らは安息にしてはならないことをするのか。」
 と言った。
   (マルコによる福音書2章24節)

 安息日に麦の穂を摘むことは、律法には触れない。
 隣人の麦畑に入る時は、手で穂を摘んでもよいが、
    その麦畑で鎌を使ってはならない。
   (申命記23章25節)
従って、
彼らの避難は、安息日を汚したことを、イエスに追求したのである。
そこで、
イエスは、ダビデの例を挙げ、
決して弟子たちの行為は、許されないことではないと反論する。


 また彼らに言われた。
 「安息日は人のためにあるもので、
    人が安息日のためにあるのではない。
    それだから、
    人の子は安息日にもまた主なのである」
   (マルコによる福音書2章27節)

 結論である。
元々安息日は、人のために定められた。
人が労働から解放され、本当の人間らしさを回復するため。
しかし時代が変化し、それが人間を縛るようになる。
解放どころか、閉塞されてしまう。
イエスは、本来の安息日を回復するために戦われた。
人間の元に休息はない。
神が与えて下さらなければ、本当の休みは得られない。

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