≪メッセージの要旨≫  2018年   7月 15日   聖霊降臨後第8主日 


        
聖書 : マルコによる福音書     4章 16〜34節

        
説教 :  『 大丈夫、実は結ぶ 』    後藤 由起 牧師


 「神さま、なぜですか」 ということが私たちの現実には起こります。
聖書は、私たちが神さまを信じて生きることについて、どう教えているのでしょうか。
イエス様は今日、二つのたとえで説明をされています。


 一つめは成長していく芽のたとえですが、なんとも楽天的なたとえです。
今、私たちが読むと、現実はそんなうまくいかないよ、と感じてしまいます。
しかしここで強調されているのは、
種を成長させ、身を実らせ、収穫の時をきたらせるのは人間の力ではなく神様のなさることである、
ということです。
たとえ今は目の前のことがうまくいかなくても、
私たちの上には確かに神様の力が働いているのであり、そこに信頼することが言われています。

 二つ目のたとえはからし種という植物のたとえです。
からし種とは、本当に小さい粉のような種で、地面に落としたらもうどこに落ちたかまったく分かりません。
けれどもそれが芽を出して成長すると、大きく実ります。
そのとき初めて人々は、ああここにからし種が落ちて成長したのだと気づくのです。
つまり聖書が今日、これらの二つのたとえを通して私たちに教えているのは、
神様の力は人間の目には一見、隠されたものであるということです。
土にまかれた種のように、どこにあるのかすぐにはわかりません。
ですから、
目の前のことがうまくいかなくなると神様を見失ってしまい、悩んだり迷ったりします。
イエス様の周りの人々も同じでした。
イエス様が神の子であると信じられなかった人々は、イエスさまを十字架に付けてしまいます。
けれども本当の神の力は、その十字架の中に隠されていました。
イエス様はご自分の十字架と復活を通して、
神様は決して私たちをお見捨てにならないこと、信仰は確かに豊かに実を結ぶのだ、
ということを私たちに示してくださいました。


 けれども確かに、
イエス様のたとえは少し楽観的すぎるのじゃないか、とも思えます。
私たちの現実は、突然の試練や、「神様、どうしてですか」ということが起こるからです。
今日のイエス様のたとえ話は、そういう
「どうしてこんなことが起こるのですか」 という問いかけには答えていないようにも思えます。
しかしイエス様は確かにここで教えてくださっています。
それは、私たちの現実にはいろいろなことが起こる、もうダメだ、と思えることも起こる。
けれども、
私たちには神様がともにいてくださるから、そんな中でもまた再び立ち上がる時が来る、ということです。
今はまだ土の中の種で何も見えない時、
どこに救いがあるのかもわからないようなときかもしれません。
しかし神様のみわざは私たちを見捨てることはない、
必ずそこから芽を出させてくださる、 ということです。


 ここで二つのたとえに共通していることは、
どんなふうに水をやったから成長したのだとか、
こういうふうに肥料をやったら実がなるのだということが 一切書かれていないことです。
むしろ、
信仰の種をまき続けるということが大切なのです。
あとは神様のみわざであり、私たちは神様に信頼することです。

 コリントの信徒への手紙Tの3章6節には、こう書かれています。

 私は植え、アポロは水を注いだ。
    しかし、成長させてくださったのは神です。
    ですから、大切なのは、
    植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。


 私たちは神を信じる者として、
収穫の時までみわざで導いてくださる神様を信頼したいのです。
道を見失ったり、何をしてよいのか分からなくなってしまったような時にこそ、種をまき続けて、
夜昼、神様を信じて寝起きをしていくことです。
私たちを決して見捨てず、天の御国までともに歩み導いてくださる主を信頼して、
今週も歩んでまいりましょう。

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