≪メッセージの要旨≫  2018年   8月 19日   聖霊降臨後第13主日 


        
聖書 : マルコによる福音書         6章 30〜44節

        
説教 :  『 神は備えてくださる 』     後藤 由起 牧師



 今朝の福音の箇所には、人々の様子が「飼い主のいない羊のような有様」と書かれています。
「飼い主のいない羊」は、どうすれば良いのか分からずに迷い続けます。
そして私たちが「羊」であるということは、自分自身が「主」ではないのだ、ということでもあります。
ですからそんな中で、飼い主に従っていくこと、さらにその飼い主がどんなお方かが重要になってきます。


 そんな私たちに聖書が教えていることは、
飼い主である主イエス様は、迷い続ける羊のような私たちを深く憐れんで決して見捨てないということです。

 例えば、私たちが抱えている思い煩いは、とても現実的なものです。
イエス様のもとにやってきた群衆も同じでした。
彼らは疲れ果てて、貧しくて、飢えています。
イエス様の弟子たちはイエス様に、群衆に自分で食べ物を買いに行かせるようにと言いましたが、
実際に自分で食べ物を買いに行くことのできる人がどれほどいたのだろうか、と想像します。
ここにいるのはまさに、
「何を食べようか、何を着ようか」と思い悩み、行き詰まりながらなんとか日々を過ごしている人々でした。
しかしそんな人々をイエス様は決して見捨てられません。
飼い主のいない羊のようにさまよい、なんとかイエス様のもとにやってきた人々のことを、イエス様は深く憐れんでくださいます。
それがここからの出来事に記されています。

 イエス様は疲れた人々のために食べ物を用意するよう弟子たちに言われます。
しかし弟子たちにはそんな力はありませんでした。
ここには、パンが五つと魚が二匹しかありません。
これもまた弟子たちの現実です。
どんなに目の前の人々を助けたくても、自分たちの力は小さく、持っているものはあまりにも少ないのです。
しかしそういう時こそ、私たちの飼い主であるイエス様がどんなお方かを信じる時です。
ここでイエス様は、ここにあるわずかなパンと魚を分けられます。
すると、奇跡が起こりました。
配っても配ってもパンはなくならず、すべての人に行き渡ったのです。
この奇跡は、イエス様こそ本当の神の子であり、救い主であることのしるしでした。
「すべての人が食べて満腹した」とあるように、
誰も取り残されることなく、すべての人が満たされたということ、これが、イエス様が主である神の国の姿です。


 しかしながら、こんなことが本当に今の私たちにも起こるのでしょうか。
現実は、「すべての人が食べて満腹した」というには程遠いようにも思えます。

 かつて悪魔がイエス様に対して誘惑したことがありました。
悪魔はイエス様に、お前が神の子なら奇跡を起こして目の前に転がっている石をパンに変えてみよと誘惑します。
石をどんどん食べ物に変えれば飢えている人はなくなり、みんながイエス様のことを信じるようになるということです。
これはとてもわかりやすいやり方です。
けれどもイエス様はここで、全く違ったやり方をなさいます。
わざわざ、弟子たちに「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言い、持っているわずかなものを差し出させます。
イエス様の力は、人間の弱いところ、力のないところにおいてこそあらわされます。
私たちがいま、満たされていない、さまざまな問題を抱えているとき、
イエス様は目の前の石をぱっとパンに変えていくやり方ではなくて、
人々がイエス様を信じ、委ねて捧げたものを用いるというやり方をなさいます。
そしてそのためにイエス様の弟子たちを用いていかれるのです。
これが、イエス様の弟子である教会の役割です。

 飼い主のいない羊のような私たち、
しかしそんな私達にイエス様の憐れみが注がれていること。
そして、私たちはこのイエス様の恵みを配って行くという働きがあること。
これが今日、聖書が教えていることです。
この恵みを配る弟子たちこそ、教会の役目です。
このとき弟子たちは、配っても配ってもパンが無くならない驚きを体験しました。
神様が共におられるならば、自分たちの持っていた五つのパンと二匹の魚で十分であることを知らされたのです。
私たちの教会も持てるものはわずかかもしれません。
しかし地域の人々に、真実の飼い主を信じて生きることの幸いを伝えていきたいのです。
その時すべての人が満たされたという聖書の言葉を信じ、
飼い主であるイエス様に頼って、安心して今週を過ごしてまいりましょう。

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