≪メッセージの要旨≫ 2018年 9月 16日 聖霊降臨後第17主日
聖書 : マルコによる福音書 7章 31〜37節
説教 : 『 すべて、すばらしい 』 後藤 由起 牧師
今日、お読みいたしましたマルコによる福音書で、人々はイエス様についてこう言います。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」
この言葉を、私たちは信仰を持って告白できるでしょうか。
自分の人生の歩みの上で起こって来たこと「すべて」について、イエス様に感謝し信頼できるでしょうか。
むしろ私たちには、なかったほうがよかったと思える出来事や、
もっとこうだったらよかったとか、あの時こうしていればよかったということがたくさんあります。
そんな私たちにイエス様が向き合ってくださるのが、今日の福音です。
イエス様の前に、人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、手を置いてくださるようにと願います。
そのとき、
イエス様はこの人だけを群集の中から連れ出し、たった二人だけになって、この人と向き合われます。
ここでイエス様は
「天を仰いで深く息をつかれた」
とありますが、これは明らかに、父なる神様が天地を造られた時のことが思い起こされています。
創世記で、神様が土で形造った人に息を拭き入れられると、人は生きるものになりました。
ここでイエス様は同じように、この人を新しく形造ってくださいます。
そのとき癒しが起こり、人々はすっかり驚いてこう言いました。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい」。
これは天地創造が完成した時に、
「神は、おつくりになったすべてのものをご覧になった。
見よ、それはきわめてよかった」(創世記1:31)
とある言葉と、そっくり同じ言葉です。
つまり、イエス様こそが天地を造られた神様の御子であり、
そのイエス様のなさることはすべて素晴らしいという信仰の言葉です。
しかしながらわたしたちは、この言葉を喜びを持って素直に告白することがなかなかできません。
イエス様を賛美するべき私たちの口は、しばしば、この世の現実の前に閉じられてしまいます。
そんな私たちにイエス様は今日、
「エッファタ(開け)」
と声をかけ、閉じられている心が開かれるようにと招いておられます。
これが今日、この礼拝で起こる癒しです。
癒しとは、単に病気の症状が良くなる、ということだけではありません。
マルコによる福音書の中で、イエス様はこれまでたくさんの病気をなおす奇跡をなさってきました。
それはイエス様が本当に神の子であり、神の国が来たことのしるしでした。
けれどもこの後、イエス様が十字架へと歩んでいかれる11章以降、奇跡はパタリと行われなくなります。
そしてこのようにいわれるのです。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(8:34)」
私たちには、この地上の歩みで背負わなければならないそれぞれの十字架があります。
イエス様は、それを下ろすのではなく、背負ってついて来るよう招かれています。
しかしその十字架は、イエス様がしっかりと担ってくださっています。
だから私たちは、色々なものを背負いながら、また一歩ずつでもイエス様のあとをついていくことができる、
それが癒しであり、そのことに心が開かれること、
これが私たちに言われている「エッファタ」ではないでしょうか。
この出来事を、かつて旧約の預言者が預言していました。
それが第一の日課であるイザヤ書35章の言葉です。
その通りにイエス様がこられました。
つまりこれは、終わりの日のしるしなのです。
イエス様がこられて始まった神の国が完成する時、この出来事もまた完成します。
私たちはイエス様を信じつつ、まだ地上での現実を歩んでいます。
しかし神様の御国が完成する時、私たちが御国に入れられる時には、
「この方のなさったことは、すべて、素晴らしい」
と心の底から告白します。
今はまだ地上にあるけれども、
その日が約束されていて、今はまだ「すべて、素晴らしい」とは言えないこともあるけれども、
イエス様を信頼して従って行く時、御国でこの信仰を告白できる時が必ず来ます。
その日まで私たちは、イエス様とともに歩み続けていくのです。
実はこのエッファタという言葉は、初代教会では洗礼式のときに言われた言葉でした。
未だ地上の現実のうちにある私たちは、すでに洗礼によって新しく御国に生まれています。
御言葉に耳を開かれ、賛美に口が開かれ、信仰に心が開かれて、
イエス様に信頼し委ねて、
「この方のなさることは、これまでも、またこれからもすばらしい」
と告白し、
自分の十字架を背負って、イエス様の後をこれからも従ってまいりましょう。