≪メッセージの要旨≫ 2019年 1月 20日 顕現節第3主日礼拝
聖書 : ルカによる福音書 4章 16〜32節
説教 : 『 今日、実現した 』 後藤 由起 牧師
聖書にはイエス様が色々な活動をされたことが記されていますが、その中心は安息日の礼拝でした。
さらに聖書の中には、救いを待ち望んでいる人がたくさん出てきます。
彼らがいつも礼拝で聞いていたのは、
聖書の中の救いの約束は「やがて」実現するだろう、ということでした。
けれどもイエス様はこう言われます。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
これはどういうことなのでしょうか。
ルカによる福音書には、イエス様が活動を始められたばかりの時のことが記されています。
いつもの安息日に、いつものようにイエス様は会堂に来られます。
そこで読まれた聖書が、イザヤ書61章の1節2節にある言葉でした。
「主の恵みの年」とは、もともとは旧約聖書のレビ記25章に出てくる「ヨベルの年」を意味します。
これは、7年を7回数えた後の年、つまり50年目には、すべての負債は免除され、
たとえば借金のために土地を失っていた人々や貧しさのために奴隷になっていた人々などが解放される年でした。
このヨベルの年の規定は、歴史上どれほど実際に行われていたのかはわかりません。
もしかしたら、理想だけであったのかもしれません。
しかし、人々はこの解放の年を待ち望んでいました。
神様が救い主メシアを遣わして様々なとらわれから解き放ち、救いを与えてくださるときだからです。
この恵みの年が今日、実現したのだということが、イエス様の説教です。
つまりここにいるイエス様こそが油注がれた人、メシアであると言われたのです。
では私たちは、「今日、実現した」という言葉をどのように聞くのでしょうか。
まずここで語られていることは、「貧しい人」に福音が語られるということです。
これはかつて、外国のバビロンに捕囚になっていたイスラエルの人々を指しました。
つまり、苦しみのうちにある信仰者たちのことを、「貧しい人」と言い表したのです。
私たちもまた、信仰の貧しい者、知識の貧しい者、
何より、苦しみや迷いの中で心が満たされていない思いをします。
しかしそんな私たちにこそ救いが語られていて、
そしてそれはもうイエス様がここにいる今、実現したのだということです。
心のうちにある祈り、恐れ、思い煩い、それら全てを捧げて礼拝に来るとき、
神の子であるイエス様は確かにここにおられ、その力が自分の上に始まるのだということです。
そのことを聞くのが礼拝であり、そのことを信じるのが信仰です。
しかしながら、その信仰を阻む出来事が起こります。
それが「この人はヨセフの子ではないか」という言葉でした。
幼い頃から自分たちがよく知っているあのイエスが、
どうして自分がメシアだと言うのだろうかという驚きもあったでしょう。
さらに「ヨセフの子」という表現は、
イエス様が聖霊によって宿った神の子であることを否定する意味でもあります。
よく知っているあのイエス様だからこそ、神の子メシアと信じることができなかったのです。
つまりこれは、信仰が日常に負けてしまった、ということではないでしょうか。
人々は毎日の現実、日常の生活に、信仰を持ち込むことができなかったのです。
考えてみると、これは私たちにも起こることです。
「この人はヨセフの子ではないか」と言うとき、
それは私たちが信仰と現実の生活を切り離してしまう瞬間です。
しかし信仰と生活が別々のものであったなら、試練の時に信仰は力ないものになってしまいます。
切り離せないものだからこそ、信仰は私たちの実際の助けになっていくのです。
人々は憤慨して、イエス様を町の外へ追い出し、崖から突き落とそうとします。
しかし、イエス様は人々の間を通り抜けて立ち去られます。
目の前の現実に負けそうになるとき、不信仰を突き破る力はここにあります。
イエス様は道のないところに道を通していく神の子です。
そのイエス様が、今、ここにいてくださる。
これが礼拝です。
「耳にした」とは、「耳に入れた」という言葉です。
漠然と聞いた、ということではなくて、信仰をもって受け入れたということなのです。
メシアは確かに私と共におられるということを、信仰を持って受け入れるのが今日の礼拝です。
だから安心して、また現実へ、日常の中へ信仰を持って帰っていくのです。