≪メッセージの要旨≫  2019年   1月  6日   顕現日礼拝     


        
聖書 : マタイによる福音書    2章  1〜12節

        
説教 :  『 喜びの年 』      後藤 由起 牧師



 今日は教会の暦では顕現主日と呼ばれる日で、
クリスマスにお生まれになったイエス様が、人々の前に公に姿をあらわされた日、
しかもユダヤ人や外国人という区別なく、すべての人の救い主としてあらわされた日とされています。
私たちもまた、新しい年の最初に、この礼拝でイエス様の前に立っています。
そんな今朝の聖書の箇所には、イエス様を前にして、ふた通りの人々の様子が記されています。


 まず、ヘロデ王やエルサレムの人々です。
彼らは、東の国からイエス様を拝みにやってきた占星術の学者たちから、
ユダヤ人の王が生まれたと知らされ不安を抱きます。
これは真実の神様の前に立つ時の、罪人である人間の素直な反応ではないでしょうか。
これまでの罪が明らかになる不安、自分が王であり続けたいと願う、
つまり神様より自分のほうを上に置きたいと願う不安。
神様に従うということは、自らの生き方を変えられることでもあります。
その決意がまだできない時の不安もあります。
新しい年の歩みが始まる時、
私たちもまた、神様を脇に置いてしまい自分が主となっている時に先行きに不安を抱くのです。

 他方、遠い道を旅してきた占星術の学者たちは喜びにあふれます。
占星術というのは当時の世界で最先端の学問の一つでした。
最高のエリートであった学者たちが、
わざわざ生まれたばかりの赤ちゃんであるイエス様を拝みに、外国まで旅をしてきます。
そして彼らが喜びにあふれたのは、
先だって導いていた星が、イエス様がおられる場所の上にとまった時であるとあります。
さまよう日々が終わり、やっと自分を委ねるに値する神様に出会えた喜びです。
様々なことに不安を抱いてしまう私たちが、
神様の前に自分を低くし、へりくだって導きを委ねるところに神様が与えてくださる喜びがあることを、
新しい年のはじめに聖書は教えています。


 そしてここでは、神様に導きを委ねることについて三つのことが記されています。
 まず、学者たちはひれ伏してイエス様を拝んだということ、つまり礼拝の大切さです。
私たちは、日常の中で神様のことを考えるよりも、
目の前の悩み事や思い煩いが心を占めていることの方がはるかに多いのではないでしょうか。
つい自分を主としてしまい、不安に苛まれる姿は、まるでヘロデ王やエルサレムの人々のようです。
しかしそういう私たちの日常と神様を結びつけるのが礼拝です。
そんな私たちだからこそ、神様は礼拝に招いてくださいます。
そんな私たちだからこそ、
日常を中断して自分の身をかがめ、神様からの喜びをいただくのが礼拝です。
この礼拝を生活の中心として、この年を始めていきたいのです。

 そして二つ目は、イエス様にひれ伏す時、捧げものが生まれるということです。
学者たちは宝の箱を開けて捧げ物をします。
宝というのは、自分にとって最も価値あるもの、そして生活を支えているものです。
宝をイエス様にささげたということは、
これからはこの世の富ではなく、イエス様が主でありイエス様が自分の人生を導いて下さるというしるしです。

 そして三番目に、礼拝の後に学者たちは 「別の道を通って」 帰っていったということです。
礼拝の前と後では、同じ家に帰るのであっても、来るときとはもう同じ道ではありません。
同じ家、同じ仕事であっても、
ここには神であるイエス様がいてくださり、神様が与えてくださる喜びがあるからです。
それを本当に体験していくのが信仰の旅です。


 私たちのこの一年、イエス様を礼拝するところに喜びがあります。
日常にもまれ、罪と恐れの中を生きる私たちだからこそ、
神様は私たちを招き、学者たちを導いたように導いてくださいます。

礼拝を生活の中心として、神様を信じ、捧げて、信仰の生活を歩んでまいりましょう。

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