≪メッセージの要旨≫  2019年   11月 17日   聖霊降臨後第23主日     


        
聖書 : ルカによる福音書    20章 27〜40節

        
説教 :  『 神の前で生きている 』    木下 海龍 牧師


サドカイ派
ダビデ王擁立にくみし、エルサレム神殿の祭司となったザドクに由来するとされるユダヤ教の一党派で、
前2世紀中頃 (ハスモン時代) から1世紀のエルサレム滅亡まで存続。
神殿を中心に祭司、商人、貴族などの裕福な階級の人々で構成されていて、
きわめて強い保守的傾向をもち,時の権力と妥協し、あるいは対立しつつ、その特権の維持をはかった。
特にモーセ五書の解釈やさまざまな祭儀上の慣習をめぐって、パリサイ派と鋭く対立し、
思想上は肉体の復活、霊魂の不滅、天使あるいは聖霊の存在などの教理をことごとく否定した。
(マタイ 22:23、マルコ 12:18)

律法学者(パリサイ派)
古代資料が伝えるユダヤ教三派の一つ。
パリサイ、
つまり「分離者」(ペルーシーム)という名称は、律法を守らない人々から自分たちを分離することを意味する。
紀元前2世紀にはエッセネ派とともに敬虔(けいけん)派(ハシディーム)に属していたが、
伝統的宗教に忠実でありながらも最高法院(サンヘドリン)の一翼を担い、
祭司層を中核とする貴族富裕階級の保守的で妥協的なサドカイ派に対して、
進歩的で独立的な庶民の利益を代表する立場にあった。
彼らは伝統的な律法の理念を日常生活に具体化することのなかに自分たちの生き方をみいだし、
律法を時代に即応したものに再解釈することに尽瘁(じんすい)した。
その律法解釈と敷衍(ふえん)は「ミシュナ」としてのちに集大成され、
彼らの思想的な流れはユダヤ教正統派のなかに継承されて今日に至っている。
…その結果、
第2神殿時代を通じて、礼拝と律法研究のために、
安息日(シャバット)ごとに各居住地の成員が集まるシナゴーグ(集会所)が発達した。
パリサイ派律法学者たちは、
シナゴーグを活動の本拠としていたため、神殿の破壊から本質的な打撃を被らなかった。
彼らは海岸地方のヤブネに集まり、それまで神殿にあったサンヘドリン(議会)を再興して、
律法と律法解釈に基づくユダヤ人共同体の形成・維持を続行した。…

神の前に生きるとは
様々な側面が考えられますが、
ここでは、ディートリッヒ・ボンへッファーの「成人化した世界論」から見てみましょう。
 「ボンヘッファーは語る。
  今までは、神とは人生の究極の困難や矛盾を解決してくれる便利な存在であった(「機械仕掛けの神」)。
  つまり人間は「神という後見人」の下でのいわば未成人であり、
  その人にとって神とは逆に言えば困難がなければ無関係な存在と言うことになる。
  ところが「われわれの時代において・・・・人間は、あらゆる重要な問題にいて
  「神という作業仮設」の助けをかりることなしに自分自身を処理することを学んだ」。
成人になったのである。
成人化した世界。
そしてそれはある意味「神なし」で生きることであるし、
むしろ「成人した世界がイエス・キリストによって要求されている」のである。
なぜなら、
その時こそはじめて神と人との関係が機械的関係でなく人格的関係(愛・自由・責任の関係)になるからである。
そして「われわれと共にいる神とは、われわれを見捨てる神なのだ。
神という作業仮設なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、
われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。
神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる」。江口再起著「ルターの脱構築」p185より引用

ボンへッファーが処刑されて75年近くなる今日、キリスト教会とこの世界に突き付けた課題は重い! 
確かに神の領域だと思われてきた原子力に手を染め、生命操作にさえ手を出し始めた人間は、
成人になったと思っているかもしれない。
しかし、その成人化は我らの主であるイエス・キリストが要求し、ボンへッファーが語ったような成人ではない。
その成人は確かにある意味で「神なし」に生きているが、「神の前」でも「神と共に」も生きていないからである。
そこには、全くに神を欠落しているからである。
そこでそれ故に、改めて教会の責任と役割が問われている。
教会は自らの教会・教派間の再一致だけに目を止めてはならないだろう。
さらにもう一歩踏み出して諸宗教間対話に歩みを進めても決して十分ではない。
「神の前で」生きている人、「神と共に」生きている人は
もちろん「神なき」人とも共に生きてゆかねばならないからである。
人類的共存としてのエキュメニズムである。
神のすばらしい創造の世界に生きているすべての人と共にいきてゆくのである。
この時に、ボンへッファーの言葉、「神の前で、神と共に、神なしで」が初めて本当にリアルにひびくのである。
それは人類的共生ということになる。
そしてある、意味でボンへッファーはこのことを獄中で願い予言していたと言えよう。
すなわち、成人化した世界とは、人類共生の世界なのである。p186

神の前で生きる! とは  神のみむねに沿った生き方を選び実践するのではないでしょうか!
最近の関西電力の福井小浜湾周辺の原発発電所建設を巡る金品の流れを聞くに及んで
人間が神のみ顔の前での選択では無く、
自分の利益や その時の利便性からのみに選択の基準があるようです! 
神様の創造時の 秩序からは大きく離叛して選択して実行していたと言うほかはありません!
2011年3月11日の地震と大津波によって、
東電の拡散した原子核からの放射能が人体に害を及ぼさなくなるまでの消滅期間の年数は20万年を要する! 
と言われております。
今の時代に、
少なくとも自分が生きている期間内に責任が取れないようなものに人は手を出すべきではありません。
起こした戦争もそうですが、原爆や原発を手にしたのは、
目先の利益や便利さや儲け話のゆえに手を出した結果の始末ぐらいは生涯をかけて始末してもらいたいものです。
そうでなければ、
先行きの結果がはっきりしない事柄には、解決策の無いものには手を出すべきではありません。
それは神様の創造の秩序に手を出して、
それゆえに以上の生態系歪め、混乱させ、生命の危険を招いてしまったのです。

 3・11の時点で日本国内の各沿岸には54基の原発が設置されておりました。
そこから出る原子力のゴミの最終処理の道は全くめどがついておりません。
ドイツ政府は3・11の後に、
ドイツ国内の一切の原発を廃棄する決定をしてその処理をはじめておりますが、
もちろん未だに完了したとは聞いておりません。
江口再起氏の長い緻密な論考の結びの言葉を引用すれば
今日「神の前で生きる」とは
『反核・脱原発こそが、21世紀の目標となる。
 そして、
 そうした目標に向かって歩むことが、「神の前」で生きるということなのではなかろうか。』p101
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