≪メッセージの要旨≫  2019年   11月 3日   全聖徒主日     


        
聖書 : ヨハネによる福音書    15章  1~17節

        
説教 :  『 あゝ懐かしき人々よ 』    木下 海龍 牧師 


 今日のヨハネ福音書の箇所は告別説教と言われている14章、15、16、17章の中に置かれております。
ヨハネ福音書執筆者たちは紀元110年頃に
ユダヤ教集団の拠点であるシナゴクから追放された直後に、イエスの言行録を纏めて編集したのです。

この頃になると教会指導者層には
すでに、マルコ、ルカ、マタイ福音書の存在は分かっていたし、所有はできないが見ていたと思います。
羊皮紙に書かれており、その枚数だけでも大変でした。
個々の筆写も限られて大変なことでした。
さらに間違えて筆写されても大事な事態になりますから、慎重であったと推察されます。

それで、
ヨハネの教会はヨハネの教会のおかれた立場から、イエスの言行録を書き残す必要に迫られて、
手元に残されている断片的な記録と新たな収集作業も含めて独自に編集作業を進めたのです。
ヨハネ15章1-6節はもともと告別説教とは
別の箇所で語られためたメタファーを告別説教の中に編集挿入したものではないかと言われております。
編集作業の中でヨハネ教会にとっては大事な内容だと判断されたからです。(ヨハネ21:25)

イエスの磔刑後も当時の教会はユダヤ教のセクトの一派として残りかったのです。
ヨハネ教団がシナゴーグから異端として追放された理由は、
 ①彼らが使っていたギリシャ訳の70人訳聖書の内にある雅歌と伝道の書(コレヘトの言葉)は
     ヘブライ語聖書の言語に準拠していない事、
 ②イエスの復活を信じて宣べ伝えている。
     これは純粋なユダヤ教に反する教えである。
当時の教会はこの二つを固守して譲らなかった。
その結果として、生きて行く道として地中海方面を目指して移動しながら伝道したのです。

葡萄の木であるイエスに
しっかりと繋がってこそ生きた実を結べるのだし、その実が残っていくのだ。と決断したわけであります。
そこでイエスの告別説教、いわゆる遺訓の中にこのメタファーを入れたのです。
この聖書の箇所を教会歴の中に入れたのは
ほぼ同じ教会歴を使っているカソリック教会、日本聖公会、世界ルーテル教会です。
三年周期のC年の全聖徒主日に用いられてきました。
生きるにせよ死ぬにせよイエスに繋がって喜びと安息の中で実を残していくことの告白であるのです。

 2017年6月18日、日本エキュメニカル協会主催の例会に於いて、
東北ヘルプ事務局長 川上直哉牧師の講演を拝聴する機会がございました。

その講演の中で、
引き取り手が判明しない「無縁仏」を弔い火葬の前に、
僧侶、牧師、神主の方々が同時に、経文、祈り、祝詞を唱える体験を語られました。
その川上牧師の講演の中で、私は「超越への通路」と言う言葉に出会いました。
それはとても印象深くて、その後の日々の思索の中で意識の水面に浮かんでまいります。

 これまでの伝道牧会の中でも、葬式や死者を思い起こす記念会は特に鮮明です。
おそらくその場面には、うそいつわりのない逝く人、送る人双方の一途さ、
愛するものへの真剣な思いがはばかることなく吐露されていたからでありましょう。
その場で、わたくしはただただ謙虚にさせられて、
牧会と祭司の役割を落ち度なく果たそうと念ずるばかりでございました。

 今の私の思索と求道の課題の一つは
 「超越への通路」 としての 「葬儀と死者への弔い」
でありました。
死者に立ち会う人はすべからく「超越への通路」に立っていることの認識と信仰姿勢を求められています。
その死者の求めは死者自身からの我々への贈与としての置き土産なのであります。
超越に至る入口まで導き招いて見せてくれるのは遺された者を愛してやまない死者それ自身であるからです。

死者の身近で愛するものが、最後まで逝かせまいと願うが故に、
生者がたどり着いた其処が超越に向かって眼前に開かれた入口なのです。
死者は入口の奥深くへは招き入れてはくれませんが、その戸口は見せておきたいのであります。
どんな景色をそこで見ているかをその死者は伺いたいと願っておられることでしょう。

 超越者の存在と招きにあずかることが
宗教の根本的な命題であり、宗教集団の存立意義があるのだと確信する昨今の自分であります。

  わたしは、今、泣いている。悲しいからではない。
  感動が突きあがって、言葉では表現できない喜びの涙です。
  肉体が死んで、すべてがお終いではなく、こうして、
  懐かしい人々とリアルに出会える実感を得ているからです。
  「ああ、懐かしき人々よ」
  懐かしいとは故郷を指すのですが、わたしが高校時代まで育った故郷には
  もはや両親はいません。小さな家がぽつんと残されて朽ちているだけです。
  もはやそこは私が帰って行く場所はありません。

  わたしが帰る所はある特定の場ではありません。
  しかしながら存在するのです。それは人々の交わりが現成するところです。
  わたしの肉体は近い将来、死を迎えるでしょう。
  肉体が牢獄であったとは思っておりません。
  日々の生活や、したい事や行きたい場所へと私自身を運んでくれたと感謝して
  労わりたい気持ちでいっぱいです。

  死によって、私自身が完全に消滅したとは思えません。
  わたしが帰還し、迎えられる場があるのです。そこは
  懐かしい人々がいるところです。そこに
  わたしは帰って行くのです。私が出会った懐かしい人々の交わりの中へと帰るのです。
  異なった場所からお互いに生前には会ったこともないのに、わたしを迎えて交わりに加える為に、
  時間と場のシンクロニシティを起こしている場にわたしは帰るのです。
  シンクロニシティを起こして私を迎える交わりの場にわたしは入るのです。

例えば、アーモット先生は富士教会に数年おられました。
献身した学生のお世話もされました。日本での働きを終えて帰国され、米国では腎臓を病んで亡くなられました。

シンクロニシティ―※とはそういうことです。
私自身が「ああ、懐かしい人々よ」と慕う人々がシンクロニシティして交わる場に帰るのです。
私が懐かしく慕う父や母や姉弟、従弟や小学校・中学校・高校・聖書学院・大学・神学校の先生や友人、
特に私が牧会した教会のイエス様を信ずる兄弟姉妹たち
(教会でお葬式が出来た人やそうでない人たちも含めて)。
一緒になって、ボーイスカウト富士第11団を立ち上げた人たち・・・。
こうして思い起こすとスゴイ人数になりますね!!
そこでは人間の肉体を脱構築してシンクロニシティした場に私が憩っているのです。

 ※シンクロニシティーsynchronicity
  虫の知らせのような、意味のある偶然の一致。
  心理学者ユングが提唱した概念。共時性。同時性。同時発生。
  ・脱構築(だつこうちく、仏: déconstruction、英: deconstruction)
  私は、人間の肉体・精神・霊を解体して新たな構想のもとに再構築する意味で使っております。

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