≪メッセージの要旨≫  2019年   12月 1日   待降節第1主日     


        
聖書 : マタイによる福音書   24章 36〜44節

        
説教 :  『 目を覚ましていなさい 』    木下 海龍 牧師 


 旧約聖書アモス8章を示して、終わりの日の到来について、どう思うか、
と執拗に私が牧師であることを意識して、どのような受け答えをするのか、迫ってくる人が東京教会にいます。
私の内心では、あなたはどうとらえて、如何に生き伸びようとしていますかと、逆に聞きたく思っています。

 旧約聖書も新約聖書も終わりの日、この世の裁きについての記述があります。
これは初代教会にとっては最重要な課題でありました。
その時以来教会は主の再臨を心にとめて、時には希望を持って、時には忍耐を抱いてまいりました。
神様の側からの全てのものの生涯を清算し、問われる時があると
・・・そのように心の片隅に捉えておくことは己の生き方を吟味する上で意味深い事柄であると思います。

 私自身が持っている天文学的な知見からすれば、
太陽の寿命が尽きる日があり、地球に氷河期の到来もあるだろうと思っております。
それが起こるとしても、まだまだ先の先であると理解しております。
それはそれとして脇に置いておいて、
素直な気持ちからすれば、そのことの前に私自身の寿命が尽きてしまうことの方が明確ですので、
自分自身が死に向かっている道程にいる私自身が自分の死に逆らえない実態にどのように向き合うか。
このことのほうが切実であります。

 神の審判や銀河系の大変動はあるでしょうが、
明日という近々に迫っている自分の死を前にしてどうするかが大問題であり緊急のことだと思っております。

<黙想からの展開>
 「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」マタイ5章48節 
この言葉は
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。
これらの言葉が続く締めくくりの言葉として置かれているのであります。
完全なものとは、完全無欠な人格者ということではなく、円熟した人間性という表現に近い語彙です。
その人自身の人生経験の中で
身と心に形成されていった慈愛のあふれた人間らしい人間性を目指すようにとの促しです。
こうした意味で自分自身の寿命が終焉にむかって歩む歩みの目当ては
 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
と奨励していてくださっているのです。
 
 「だから、目を覚ましていなさい。
 以上が自分の生き方として「目を覚ましている」生き方であると言えるのではないでしょうか。
それが、天の父を仰ぐものの生き方なのです。
自分の置かれた状況と自分の力量に従ってごまかさずに自分の日々の生活を営むことなのです。

例1、主婦であり看護婦長でもあった葛井さんへの助言
「帰宅したら、ご飯を炊き、洗濯をして、いつもの生活をしなさい。
   今日の体験は軽率には話さない事。
   自分自身で、明確に説明できるようになるまでは心の内に納めておきなさい。」
彼女はわたしとの瞑想の学びの中でいつも不思議な・神秘的な体験を語ってくれたからです。
 主の来臨を待ちつつ、神の存在の身近さを体験しつつも、
それらを自分の心の内に納めて大事にしながら、この世の自分の務めを果たしてゆくのです。
それが「目を覚まして」生きて行くことではないでしょうか。

例2 肉体と精神を使い果たすほどの多忙と疲労の中でも、
神に向かって静まる時間を24時間のどこかで聖別して日々を送ることではないでしょうか。
自分の思い込みから神の思いへの解放へ。

例3 自分の生き方やスタイル、価値観を明確に持って生活しつつも、
一方では自分とは異なった生き方や、生活スタイルの人、
価値観の異なった人とも交わり交流できる領域を確保できている。
これが目を覚まして生きていることではないでしょうか。

 皆さん方はどう思っているかは定かではありませんが、
今日のルーテル教会会員の生き方は非常なバランス感覚を取りながら信仰生活をなさっていると思っております。
別の表現をすれば高度な難しい微妙なセンスを持って信仰生活をなさっていると評価しております。
それこそがこの世で目を覚まして主を待ち望んでいる状態だと思えます。
寝ぼけていたのでは足が捕られる。

「それはちがうよ!」と仰る方は、ご自身が目を覚まして主を待ち望んでいる生き方について
言葉で、或いは具体的な行いでもってわたしに教えてくださればうれしい!! 
納得すれば私もその生き方を取り入れるでしょう。

私が理解しているルーテル教会の信仰者の姿
 1、 神様の存在を信じている。それゆえに、神に出会える礼拝を大切にしています。
 2、 隣人を愛する人間であろうと努めている。
     地域の人々と平和に。
     隣近所の奉仕があり礼拝を休む場合でも責められることはない。
 3、 自分の修行と善行がどんなに真剣に実行したとしてもそれ自体によっては神に義とされるわけではなく、
     イエス・キリストを送ってくださった神様の恩寵によって義とされるのであると。
 4、 家族を大切にしてお互いが仕え会うこと。
     夫や妻の仕事はその家庭に在っては重い尊い務めである。
     それは神様の召しであって、神の前で牧師への召命と何ら変わらない召命である。
 5、 ルーテル教会は家族である夫が自分の信仰に理解せず批判的であるならば、
     その家を飛び出して牧師館に棲みなさい、宿泊と食事は保証するから伝道しなさい、とは言わない。
     「王国の館」は造らない。
 6、 神に仕えるためには全財産を捧げて独身を守り、牧師かシスターになるべきだとは言わない。
 7、 出来る限り自立して働き、自分の生活の糧を得るようにしなさい。
 8、 年老いて、体力的にも、また一定の収入がなくなっても
     生活が保障される制度のある国作りを皆で進めましょう。
 9、 異なった信仰の持ち主を大切に扱い尊重しましょう。
10、キリスト教を次の時代へと受け継いでゆくために努力し、責任を担いましょう。
           以上、思い付きを挙げました。

・主イエス・キリストは我々の期待とは違った隠れた姿で既に来られたのだ。
   だとすれば主の来臨もまた我々の既成概念や期待の姿や有様で来られるであろうか。
   新約聖書がイエス・キリストの誕生と苦難と十字架刑をもとに、
   旧約の時代の期待とは別に、書き記されたように、
   われわれの期待とは異なった再臨と栄光と恩寵の物語が書き記されるのでないでしょうか。
・目を覚まして、主の訪れを察知しましょう。
・主は我々の期待とは違った隠れた姿で来られたのである。
・十字架は神の隠された姿なのである。
・主の再臨もまた隠された姿で現れるのではないか。

過去の音声メッセージに戻る