≪メッセージの要旨≫ 2019年 12月 22日 待降節第4主日(クリスマス主日)
聖書 : マタイによる福音書 1章 18〜25節
説教 : 『 神は我々と共に 』 木下 海龍 牧師
ヨセフは婚約中のマリアをひそかに離縁しようと決心しました。
二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった、からです。
ひそかに縁を切ろうと決心した!
とは、当時のユダヤ社会の厳格な戒律を考量すれば、
ヨセフは自分から公に明らかにしよとはしなかったのはマリアへの思いやりでもあったと読めます。
しかしこの考察に立ちますとヨセフは、
マリアには自分以外の男性との関係があったのではないかと疑っていたととれます。
現代社会の知見からすれば婚約者の懐妊は別の男性の存在を疑うのは普通であると言えましょう。
しかしながら聖書の記述をよく読んでみますと、18節では
「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」
とありますので、ヨセフ自身にとっても、それは聖霊によって身ごもっているとわかっていたと読めます。
ヨセフ自身が他の男性の存在を疑ったとは思えません。
「マリアが聖霊によって身ごもっている」
そのこと自体に、ある種の畏れと大工の自分がマリアを嫁に迎えるのは相応しくないと苦悶した結果、
離縁を決断したのではないでしょうか。
婚約関係にある女性が神によって選らばれた人であるがゆえに、
自分との婚約関係を切っておくことが、これからその子が生まれてくる状況の中でベストではないか!
とヨセフなりに熟慮したのだと思われます。
そして彼自身の選択は「ひそかに縁を切る」ことでした。
ところがその夜の夢に主の天使が現れて言うのです。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」
ここでの「恐れず」は世間を「恐れず」ではなく、
既に神が選ばれた人を大工に過ぎない自分が妻にすることにヨセフが「恐れて」いたから、
天使はわざわざ、そのことに触れて言った言葉なのです。
そして生まれてくる男の子の名づけ親にヨセフを任じて
「その子をイエスと名付けなさい。」 と。
不思議とヨセフの語りは一言もございません。
ただ、その行動が記されているだけです。
聖書ではヨセフは生涯寡黙な夫、父親として描かれておりますが、ここでも24節に
「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」
と記述されているだけです。
このヨセフのマリアを迎え入れる決断と行動がなかったならば
マリアとその胎の子は健やかに生まれ育つことは至難であったことでしょう。
神の業を畏れて身を引くヨセフに対して、
なんとしてもインマヌエルとしてのイエスをこの世に送り出すための神の側の熱い心、
神の「本願」がなさしめた出来事であったと言えましょう。
折口信夫の「死者の書」を論じた藤原茂樹(慶応義塾大学名誉教授)の言葉から
この小説「死者の書」の主人公の女性を「かむさびた素質の高さ」という言葉で表しておりました。
この言葉はわたしが探していた表現でした。
神様および、神的な存在に敏感に感受する素質を
生まれながらにして持っている人を表現する言葉になっていると思ったのです。
そこで乙女マリアについて考えました。
彼女の素性について新約聖書の中では、説明的な文書ではほとんど語っておりません。
「死者の書」の主人公である女性は天皇家に最も近い家柄の藤原南家の郎女イラツメとなっています。
マリアの出自について伝説では言われているようですが、私の記憶には残っておりません。
カトリック教会ではマリアの立場はとても高く、崇拝の対象になっております。
シリア正教会は、マリアを 「yoldath aloho」、すなわち 「神をもたらした人」 と呼びます。
なぜなら、彼女が真に受肉した神であるキリストを生んだからです。
ルター派の場合には、高い尊敬と深い敬愛を抱いております。
キリスト教教義的にも、イエスは分かちがたく神であり、人であると定義されておりますので、
人間イエスの母であり、同時に神であるイエスの母であると定義されております。
ルターは「マリア賛歌」の著書に於いてマリアの信仰を高く褒めたたえております。
これらのマリアに関する教義は
5世紀カルケドン公会議(451年10月8日から11月1日)で定められたものです。
1世紀前後に書きあげられた福音書には
普通に信仰深くイエスを愛して育てた母親として描かれております。
マリアの出自についての記述はございません。
ルカ福音書1章46〜55節にある
マリアの賛歌として知られているマリア自身の言葉からマリアはどんな人であったかを推し量ることができます。
今日は詳細には触れられませんが・・・。
ここにある47節48節の言葉から推しはかっても
神のプレゼンス(存在)に触れて打ち砕かれた魂の響きが感じられます。
殊に38節
「視よ、われは主のはしためです。
お言葉どおり、この身になりますように。」
48節
「そのはしための卑しきをも顧み給えばなり、
視よ、今よりのち萬世の人、われを幸福とせん。」
49節
「全能者われに大いなる事を為したまへばなり。
その御名は聖なり、その憐みは代々、畏(かしこ)み恐るる者に臨むなり。」文語訳
殊に この卑しきをも顧みられる神を褒め称える 箇所の言葉から彼女の神実在がうかがわれます!
ここのところに 「かむさびた素質の高さ」 が伺えると考えておりますます!
数にも入らない小さな自己存在の気づきは偉大な神に見(ま)えた人間の感覚に他なりません!
神の側からの一方的な選びではありますが、なぜ彼女であったのか?
それは神の側の自由な選びではありますが!
それでも彼女が選ばれる何かは何だったのか。
それにあえてふれるならば先に引用した折口信夫の言うところの
「かむさびた素質の高さ」
にあると言えるのではないか。
それゆえに神であるイエスの母として選ばれたのであると推察するのです。
シリア正教会は、マリアを「神をもたらした人」と位置づけておりますが、合わせて、
今日のマタイ福音書から読み解くならば、
インマヌエルとしての 「神は我々と共におられる」 実在をもたらしたのです。
さらに言えばイエスの誕生から十字架と復活、昇天、聖霊降臨、その後の教会形成の出来事の真っただ中を
生き抜いた生き証人としてのマリアの 「かむさびた質の高さ」 です。
眠りから覚めたヨセフがマリアを妻として迎え入れた決断もまた
聖なる領域からのメッセージに畏怖と信じる受け皿として従う心があったからです。
イエスを懐に抱いたマリアの姿は、
イエスを神から賜った 「命」 として抱いている教会、
しかもその教会は抱いている幼子イエス自身によって支えられている関係を連想させます。
その教会をこの世の見える形で支えているのが信徒の役割であるヨセフと重なるように思われてなりません。