2019年   2月 17日   顕現節第7主日礼拝     


      
聖書 : ルカによる福音書    6章 37〜49節

      
説教 :  『 揺れ動かない土台 』  後藤 由起 牧師

              // 【ギデオン・サンデー】 〜 ギデオン・メッセージ 〜 (菊池光男兄、 湯山茂兄)


 日本のホスピスの第一人者、柏木哲夫さんの言葉に
「人は生きてきたように死んでいく」 というものがあります。
では私たちは今まで、どんな生き方をしてきたでしょうか。
イエス様は、
 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、
     悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。
     人の口は、心からあふれ出ることを語るのである

と言われています。
私たちがどんな生き方をしてきたか、そしてこれからどう生きていくのかは、
言い換えれば、自分の心の倉に何を貯めてきたのかということでもあるのです。
イエス様を信じる者として、私たちはどう生きるのでしょうか。


 そんな私達に、イエス様はまず 「人を裁くな」 と教えておられます。
人を裁くということは、自分が正しいと思っているとき、つまり自分を神としてしまうときです。
しかしイエス様は、
「兄弟の目にはおが屑があり、あなたの目には丸太がある」 とも言っておられます。
おが屑と丸太とでは、そもそも比べ物にならないほど全く大きさが違うものです。
私たちが人を裁きあっているのは、言ってみればお互いにおが屑を見つけあっているようなものです。
しかし、神様の目から見れば、私たちの目には丸太がある、ということです。
人を裁くのは神のなさることであって、
わたしたちが神様に成り代わって人を決めつけようとしていることがすでに罪であるということです。
だからイエス様は、「人を裁くな」 と教えられます。
そしてイエス様は、
このようなイエス様の教えを守ることこそ、私たちが生きていく揺るがない土台になるのだと教えておられます。


 ではイエス様がおっしゃったことを私たちは行っているか、
と問われると、とてもそんなことはできていない自分の姿に気付かされます。
しかしここで重要なことは、イエス様は私たちに救いの条件を話しておられるのではないということです。
むしろ、すでに私たちはこうして礼拝に来て、神様の言葉を聞くように招かれています。
イエス様は、救いに入れられた私たちの生き方をイエス様という土台の上に築こうとしてくださっているのです。
それでは私たちはどうしたらよいのでしょうか。
イエス様はこう言われています。
 まず自分の目から丸太を取り除け。
     そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。

丸太、つまり自分のうちにある罪を取り除くこと、
これこそ一番大切なことであり、それが神の子イエス・キリストが十字架にかかられた理由です。

私たちはイエス様の厳しい言葉の前に、
いかに自分が人を裁き、神にそむいている人間かということを知らされます。
しかしながらわたしたちが揺らぐことのない土台を持つとは、
こんなわたしのために流された神の子の十字架の血の、赦しの確かさを信じることです。
イエス様は、人を裁くな、そうすればさばかれることがない。
人を罪びとだと決めるな、そうすれば罪びとだと決められることがない、とおっしゃいました。
しかし実際には、
人を裁く者であるにもかかわらず、私たちは裁かれることのない者として永遠の命を頂いています。
人を決め付けてしまう者であるにもかかわらず、
私たちは自分が罪びとと決められることがない恵みを頂いたのです。
ここで 「はっきり見えるようになる」 とおっしゃっていますが、
見えるようになるのは、神様の恵みがいかに大きな憐れみ深いものであるか、ということです。


 そこで私たちは今、自分自身の心の倉に目を向けます。
こんな罪人であるにもかかわらず、その心の倉がイエス様の赦しでいっぱいになっていることを知るのです。
悪いものが入っていた倉、人を裁く思い、羨む思い、周りを恨む思い、自分を許せない思い。
そんな私たちの心の倉がイエス様の赦しで満たされるのがこの礼拝です。

 どんなときもイエス様がともにおられることを信じ、
この私のために与えられた赦しで満たされていることを信じ、
イエス様の言葉を聞いて行う信仰をいただいて、今週一週間歩んでまいりましょう。
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