≪メッセージの要旨≫ 2019年 2月 3日 顕現節第5主日礼拝
聖書 : ルカによる福音書 6章 17〜26節
説教 : 『 幸いへの招き 』 後藤 由起 牧師
「貧しい人々は、幸いである。」
「富んでいるあなたがたは、不幸である。」
今日、語られているイエス様の言葉は、私たちが普段、生活している考え方とは正反対です。
このイエス様の言葉を聞いていた人々は、どんな人たちだったのでしょうか。
実際、弟子たちの大部分は貧しい人々だったと考えられます。
しかし中には富んでいる人々もいて、弟子たちの生活を助けていたことも想像できます。
つまりここでいう 「貧しい人びと」 「富んでいるあなたがた」 とは、
両方ともイエス様の弟子でありイエス様の言葉を聞いている人々です。
では、なぜ貧しい人々が幸いで、富んでいる人々が不幸なのでしょうか。
イエス様はこうおっしゃっています。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
・・しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。」
貧しい人が幸いなのは、貧しいから幸いなわけではありません。
富んでいる人々が不幸だといわれているのは、富んでいることが悪いというわけではありません。
幸いなのは、神の国が彼らのものだからです。
同じように富んでいる人々が不幸だというのは、すでに慰めを受けているからだということです。
「不幸」 とは、もともとは 「ああ、何と悲しいことか」 という言葉です。
イエス様は嘆いておられるわけです。
ああなんと残念なことか、
富んでいるあなたがたは、神の国がやってきたのに、もうすでに他のもので慰めを受けているということです。
それでは、神の国とは何でしょうか。
これは神様の支配ということです。
神様のみ手が私たちの上に及んでいて、私たちは満たされるようになる。
泣いている人が笑うようになる。
これが、イエス様が来られたということです。
そのとおり、イエス様が来られたガリラヤの様子が17-19節に書かれています。
大勢の弟子とおびただしい民衆が、
・・イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。
汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。
イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
つまり、神の国があなたがたのものだから幸いだとは、
言い換えればイエス様とともに生きるから幸いなのだ、ということです。
慰め主であるイエス様が、これからはともにおられ、その力が私の上に及んでいる。
神様が顧みてくださっているから幸いなのです。
イエス様はここで、こうすれば幸せになれるとか、幸せを掴む方法をおっしゃっているのではありません。
貧しい人よ、困っている人よ、
大丈夫、あなたはもう幸せだよ、神様がともにおられるのだから、ということです。
これが福音、グッドニュースなのです。
この貧しい人、豊かな人というのは、税金の金額を決める基準のように、
一定のこの収入以下の人は貧しい人、この基準以上は豊かな人、ということではありません。
私たちはどちらにもなり得ます。
イエス様の力を求めているのか、他のことで心がいっぱいになっているのか。
生きていく中で私たちは、乏しいことも、嘆くことも経験します。
この世の生活が目の前にありますから、現実に一喜一憂します。
そんな私たちにイエス様は、
大丈夫、神様の支配はそのあなたの上に確かに及んでいる、と言ってくださいます。
その幸いに気づくよう、今日私たちは招かれているのです。
このイエス様の言葉には、
「こうやってあなたは満たされるだろう」 とか
「これこれこういう風にしてあなたがたは笑うようになる」 ということは書かれていません。
そこには神様のご計画があり、方法があります。
ただ確かなことは、神様はともにおられるということです。
ですから、
たとえ世の人々が「不幸」というような状態にあったとしても、私たちはイエス様に頼ることができます。
安心してイエス様に頼り、イエス様を求めること、これが幸いへの招きです。
私たちの礼拝は、祝福の言葉で終わります。
この祝福こそ、イエス様がここで「幸いだ」と言われているのと同じ言葉です。
今、私たちが貧しくても、
「主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔の光をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜ります。」
私たちはイエス様から幸いへと招かれています。
イエス様とともに、新しい一週間を歩みましょう。