≪メッセージの要旨≫ 2019年 3月 17日 四旬節第2主日
聖書 : ルカによる福音書 18章 31〜43節
説教 : 『 信仰はあなたを救う 』 後藤 由起 牧師
今日は洗礼式・転入式が行われます。
私たちがどんな信仰に立っているのかを今一度しっかりと確認いたしましょう。
私たちの信仰の中心は、十字架におかかりになったイエス様です。
イエス様がご自分の十字架の死について弟子たちに予告された時、このようにおっしゃいました。
今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。
この「今」という言葉は、さあ、見よ、というような注意を促す言葉です。
つまり十字架へ向かうイエス様の決意が現れている様な、それほど強い「今こそこの時」なのです。
しかしながらここには、
イエス様のもっとも近くにいた弟子たちですら、そのイエス様の十字架の出来事を理解できなかった、とあります。
私たちがイエス様を信じるとは、私たちもまたイエス様の十字架の苦しみに従うことでもあります。
しかし実際に試練の時、神様が見えなくなり、神様のご計画がわからなくなることがあるのも事実です。
しかしそれだけではありません。
聖書は、そんな私たちに救いの道を示しています。
ここにもう一人、イエス様に出会う人が出てきます。
道端に座っていた、目の不自由な人です。
彼は、イエス様が来られたことを教えられると、
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」
と叫び続けます。
ダビデの子、とは、救い主という意味です。
つまり、
この人は十字架にかけられるためにエルサレムに向かうイエス様こそ、自分を救うお方だということを知っています。
イエス様の十字架がわからなかった弟子たちと対照的に、この人は信仰の目が開かれていたのです。
このように聖書には、信仰の目が閉じられている、また開かれている、という出来事が記されています。
例えば弟子たちです。
彼らにはイエス様の十字架と復活の意味は隠されていました。
彼らはイエス様が復活されたあとも、イエス様に出会っても全く分かりませんでした。
エマオに向かって歩いていた二人の弟子は、
イエス様と一緒に旅を続けながらも、そのお方がイエス様だとは気づきません。
彼らは、信仰の目が閉じられていたのです。
ところが夕方になり宿に入ってイエス様がパンを裂かれたとき、
二人の目は開かれ、そのお方がイエス様であることが分かるのです。
するとその瞬間に、イエス様の姿は見えなくなります。
これは非常に不思議なことです。
一緒にいて目の前にいたときには、それがイエス様だと分からなかった。
しかし、それがイエス様だとわかった時に、その姿は見えなくなった。
私たちは今、この信仰の目が開かれているかと問われているのです。
神様のご計画がわからなくなる様な時は必ずあります。
しかしそんな時にこそ、聖書は私たちの信仰の目を開こうとします。
それが、この人が叫んだこの言葉です。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」
この言葉こそ、全てが込められている祈りです。
ルーテル教会の礼拝は、最初にキリエを唱えます。
これが、イエス様、私を憐れんでください、という祈りなのです。
だからこそ四旬節の今日、わたしたちは十字架におかかりになるイエス様に叫びましょう。
その時、イエス様はこう言われます。
「見えるようになれ。
あなたの信仰があなたを救った。」
この人の信仰とは何でしょうか。
この人のしたことは、ただイエス様にすがって、叫んだことだけです。
しかしイエス様はそれを信仰と呼んでくださいます。
信仰の目が開かれる時、
試練の時にもそれは私たちがイエス様の十字架にまで従っている時であることを知ります。
この人はイエス様を褒め称えて従います。
イエス様を褒め称えるとは、全てのことをイエス様に委ねて信じ、信頼することです。
イエス様の十字架こそ私の全ての罪を赦し、天の御国まで導いてくださる救いであることを知るのです。
洗礼を受けられる兄弟、
そして転入される兄弟姉妹、
迎えてくださる教会の皆さん。
信仰生活はうまくいくときばかりではありません。
悩むときも、神様のご計画が「隠されている」様に思えるときもあります。
けれどもそんなときこそ、わたしたちは
「イエス様、私を憐れんでください。」
と叫ぶことができます。
十字架におかかりになったイエス様に従っていくとき、
そこにこそ救いがあることを信仰の目で「見る」のです。
イエス様の十字架の後には、「三日目に復活」があるからです。
どんな時にも私たちを顧みてくださるイエス様を信頼し、
「主よ、こんな私を憐れんでください」
と祈りながら、十字架の主に従ってまいりましょう。