≪メッセージの要旨≫  2019年   4月 7日   四旬節第5主日     


        
聖書 : ルカによる福音書    20章  9〜19節

        
説教 :  『 捨てた石が隅の頭石 』   木下 海龍 牧師


家づくりの専門家が彼の描いた設計図とは違った形の石を捨ててしまう譬えです。
自分の設計図からすると此の石は全く役に立たないと判断したからです。


今日の聖書の理解を展開するために、関連する聖書の箇所を見ておきましょう。

新共同訳 ペトロの手紙一 第2章4〜10節
2:4 この主のもとに来なさい。
   主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。


2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。
   そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。


このペテロの手紙から判断すると、捨てられた理由は、
一つは眼に見える外見の形がその建築家が描いていたものとは予想外に異なっていたからです。
家一軒を建てるのですから当然に構造から細部に至るまで描いた自らのイメージがあったからです。
さらにペテロの
「あなた方自身も生きた石として用いられ」
と述べておりますから、外見的に目に見える物だけではなく、
「生きた石」の表現から霊的な領域としてこの石を見ているということです。
更に、イザヤ書第28章16節には、
わたしは一つの石をシオンに据える。
    これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、尊い隅の石だ。
    信ずる者は慌てることがない

建築家の判断とわたし(神)との判断の違い、落差が背景にはあります。
其れは驚くべき落差ですから、詩編第118編23節には、
これは主の御業/私たちの目には驚くべきこと
と宣べております。
「試みを経た石」とは
神様が長い間の慎重な吟味を経たのちに選び据えた間違いのない親石であるのだ!と述べているのです。
その親石があなたの人生の全体を根底から支えているのだ!!と。

隅の親石、かなめ石は、建物全体を支える役割を果たしています。
この生きた石によって、それまで死んでいた石が、生きた石として用いられて行きます。

注1 復活されたキリストは生きた石です。
    生きた石であるキリストに結び合わされたからこそ、
    信仰者は生きた石としてその役割を果たせるのです。
    霊的な家を造り上げるようにと呼びかけられています。
    霊的な家である教会の務めは聖なる祭司としての務めです。
注2 5節のみ言葉は語ります。
    「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」。
    感謝と讃美という霊的ないけにえを、
    大祭司イエス・キリストの執り成しによって、神の御前に捧げます。


一方、人の死は避けられない現実があります。
人間自身にはどうともなしえない現実です。
しかしながら、聖書はこの親石は実はイエス・キリストを指示しているのです。
われわれ人間の現実は自己存在の中に死を抱え込んで生きているのですが、
人となられてこの世界を生きたイエスも十字架の上で息を引き取られて死んで葬むられたのです。
ところがそのイエスが復活なさったのです。
このイエスの復活の出来事がもたらす希望によって
我々はこのやがて死んでゆく体を持ちながらも
復活のイエスに預かる希望を抱いてこの時間軸を生きているのだと言えます。
「行き先知れず整える死への旅衣」としてではなく、
我々の肉体の終焉は同時に復活のイエスにまみえる旅路へと向かうのだ、
と信じ受け取れるのはなんと希望に満ちた肉体の終焉ではないでしょうか。

近代に入ってヨーロッパのキリスト教会は大きな価値観の変転に襲われるようになりました。
別の言葉でいえば、
人間が望む価値からすると想定外の神は捨てられるか?!
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日〜 1900年8月25日)
は、ドイツの哲学者、古典文献学者。現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られる。
彼の著書『悦ばしき知識』を最も有名にしたのは、
伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づける「神は死んだ」という主張であります。

  「白昼に、市場にランタンをかかげながら狂気の男が走りこんでくる。
     そして、『おれは神を探している! 俺は神を探している!』と叫ぶ。
     しかし、市場に群がる人々は、もはや誰一人として『神』を信じてはいない。
     そこで男は叫ぶ。
     『神は死んだ!神は死んだままだ!それも、俺たちが神を殺したのだ!』と。」

ニーチェのこの著作になかの寓話を、どう読み解くべきでしょうか。
彼ニーチェは19世紀半ばに生まれ、20世紀に入る直前に亡くなっております。
ヨーロッパ国内における価値観が大きく変遷してゆく最中にいたのは確かです。
大雑把に言えば
 「聖書の神の教えよりも、
    財貨や富を得ることをみんなが死に物狂いで追いかけ始める時代背景があったのです。
    すなわち自分達が欲する価値判断に従って生きてゆく道、
    しかもそれはお金のためには何でもすると言う選択だったのです。」

日本でもまだ20年位前までは、数学研究者だというと
「驚いて大層尊敬のまなざしで見られた」だからいま日本に滞在しているのです、と言った人がいました。
今では「その数学ではいくら金になるのですか。」と尋ねられそうですね。
ましてや「大学院で神学を学んでいます」とでも言ったら、どんな反応があるでしょうかね。
ポストモダンの時代だと言われて久しいのですが、
当初の人々を豊かにし、幸福にするはずの資本主義社会は行き詰まり、
その終焉後の在り方が未だに描かれておりません。

実は我々が役に立たないと捨てたはずの石が
実は我々が生きるに於いても死に臨む最中にも私どもの存在を根底から支えていると言うのに!!!

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