≪メッセージの要旨≫  2019年   5月 5日   復活後第2主日     


        
聖書 : ルカによる福音書  24章 36〜43節

        
説教 :  『 ここに食べ物があるか 』    木下 海龍 牧師


弟子たちに現れる
ルカ24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」
と言われた。
エマオ途上で復活のイエスに出会ったこと、33節本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていたこと。
などなどを言い合いながらイエスの復活の確証を得ることもなく、
弟子たちがざわついている最中の真ん中にお立ちになられたのです。
 この場面では弟子たちは
自分たちが保持している知識と経験からイエスの復活の報告を理解しようとしていたに違いありません。
しかしながら
最終的な復活の真実の理解には到達しえないままにただただざわついていたのではないでしょうか。
人間はある出来事の真実性を考察することによって理解し受容しようとする傾向があります。
これは大切な作業ではありますが、
限界性の存在として生きている人間による考察領域をはるかに超えて起こったイエスの復活は
その作業では把握しえないのであります。
そこには大きな次元の違いが横たわっていると言えましょう。
例えて言えば
「点と線だけでは存在する物体を包み込めない。
    自由に稼働する面としての風呂敷のようなものが必要であります。」
イエスの復活は単に死んだ人間が蘇生したと言う医術的な出来事とは異なった出来事であります。
それは神秘的神的な領域の出来事が
限界性の中に生きている私たちの世界領域で起こった出来事であったと言えましょう。
その出来事を本当に理解して受容するためには、
我々の考察や思索の結果到達して、把握しえる事柄ではありえません。
例えばプールの水全部をマイカップに注ぎ込もうとするほどの差異があると言えましょう。
イエスの復活を受容する経験は選択の余地なくイエス自身から与えられ、
その意味で受容的に受け取られるものです。
それは神の愛がこちら側に差し向けられた事実に因るのです。
その神の愛の注ぎ込みを受け、その受容した愛によって神が為す(復活)を信じ受容できるのです。
「だから愛は神の本体を捕捉する力であり、最も深き知識となるのです。」(K・リーゼンフーバー著作参照)


「ここに食べ物があるか」
この時点での弟子達の状況は散らされた羊の群れのようであったでしょう!
弟子のリーダ格のペテロは
「わたしは漁に行く」(ヨハネ21:3)
と以前の漁師に戻る と 呟いて居ります! 
弟子集団は解体の危機にあったのではないでしょうか?

復活のイエスはお腹が空いているので、ここで食べ物を求めているわけではありません。
関係性の回復と交わりの構築を目指して
「ここに何か食べ物があるか」
と呼び掛けているととれます。
そして弟子達はすぐさまに準備をして従います。
このことから、
食べ物を準備する作業は
その内側には日毎に関係性を回復して交わりを新たにして行く意義があるのだと受け取れます!  
「家族」・喧嘩をしてもご飯が用意されていたり、叱られても決して見捨てることをしない者のこと。 
   夫婦喧嘩や親子喧嘩の後のご飯の提供は関係性の修復を無意識のうちにしているように思えます。
こんにちの教会は
世の中の少子高齢化の影響と消費社会の傾向をもろに受けていることもあって
以前のようには食事の準備が難しい状況になってきて居ります!
東京教会のような比較的大きな教会でも、準備はとても大変なようです。
クリスマスとイースターそして77歳以上の高齢者祝会の3回くらいが記憶に残る程度ですね。
それは取りも直さず会員間の関係性の希薄と交わりの喪失へと至る兆しであるとも言えましょう。
だから牧師は希薄性を埋めるべく
花びらを降らせてみたり,聖木曜日に洗足の儀式を取り入れたり様々な努力をしております。
昔のようにではなくても、怠惰性に流されずに、集いの場面に於いて 食べ物を供用する事が
関係性と共同体を維持し続ける上で大切な面であるのではないのかと感じます!
こうした作業が度外視されていく傾向があるのは現実なのですが、
食べ物を準備して食べる食卓が実は聖餐式の飲み食いが
主の臨在を実感する事を単なる象徴行為から主と交わる経験への実体験へと導き易くなるのではないかと思う のです。
それをどの様に回復して行くかは大事でかつ大変困難な事柄だと受け止めて居ります!
その作業への動機付けとしては、これはとても尊い作業であり、
教会の分裂的状況から救出する尊い業であったのだと熱く認識する事、
更にその奉仕作業に従事している人を尊重して必要な具体的な手助けと準備を惜しまない事!
それに携わっている人の指示に全体が従う事です!

注1「家族」・喧嘩をしてもご飯が用意されていたり、叱られても決して見捨てることをしない者のこと。
       どんなことがあっても自分の味方でいてくれる存在のこと。
(2014年6月に実施した「あなたの言葉を辞書に載せよう。」キャンペーンでの
       「家族」への投稿から選ばれた優秀作品の一つ。)
神の家族に援用すれば 教会とは何か にも言えるのではないでしょうか。
時代の流れに教会も翻弄されているこんにちであるからなおさら
教会は多くの課題をこまめに手を付けるべきだと論議されています。
関係性の回復と交じわりの再構築は欠かせないのではないでしょうか。
そのための具体的な課題を拾い上げて
今の自分たちにとって、一つ二つ何が出来るか 何が無理なのかを共有して出来る事を選んで
実施して行くのはとても大事だと思います。


ここに食べ物があるか
自分たちだけの食べ物ではなく、初めて来た人の食べ物の用意もしているか
わたしがうれしかったのは教会に行き始めたころに、
分け隔てなく新来会者である私にも歓迎して食卓に招かれたことでした。
それが楽しみでもありました。
予定していた自分の量を半分になっても分け合っていただく自然な配慮、
それが教会の信仰的な交わりから顕れ出る姿ではないでしょうか。

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