≪メッセージの要旨≫2019年   6月 2日   昇天主日     


        
聖書 : ルカによる福音書  24章 44〜53節

        
説教 :  『 異次元を目撃する人達 』   木下 海龍 牧師


「蒼天を駆け逝くエリヤ聖五月」

五月は好きな季節です。
エリヤも旧約の予言者の中では一番好きです。
ことに弟子エリシャとのやり取りの中でエリシャの眼前で火の戦車で天に駆け昇るさまは心躍る場面です。
弟子エリシャは師のエリヤの死が迫っていることを察知してそばから離れません。
そのあたりの二人のやり取りも大変に興味深い内容があります。
※参照(列王記下2:1−18)
二人はギルガルを出てベテル→エリコ→ヨルダンへと移動してヨルダン川を渡った時に
師のエリヤが諦めたのか弟子の力量を見極めたからなのか、師弟の最後のセレモニに入ります。
列王下 2:9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。
 「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。
      何なりと願いなさい。」
エリシャは、
 「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」
と言った。
2:10 エリヤは言った。
 「あなたはむずかしい願いをする。
      わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。
      もし見なければ、願いはかなえられない。」
2:11 彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。
エリヤは嵐の中を天に上って行った。
わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。
もし見なければ、願いはかなえられない。
ここでエリヤが言った「見れば・・・」には二つの事柄が含まれております。
一つはこの状況に集中が持続できれば。
もう一つは見ることができる霊的な能力がエリシャに備わっているならば・・・。と言うことでしょう。
先生筋の導師がどんなに偉くとも弟子の側に受け取る備えが準備できているかどうかも大きな要であるからです。
この日の60キロほどの試練の旅においてエリヤは時来たれりと判断したのです。
弟子のエリシャに見る力量が備わってきたと見極めたので、
エリシャの眼前で火の戦車によって天に引き上げられていったのです。
エリシャはそれを目撃して約束の霊を受けるのです。

さてイエスの昇天の場面を見ましょう。
イエス昇天の教理の根拠は使徒信条とニケア信条に教会は根拠を置いているのです。
・使徒信条は、
 ローマ教会の古来の洗礼式の信条である「ローマ信条」(2世紀後半)にもとづいてつくられたもので,
 早くから公同の信条として用いられてきた。
 「三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、
      全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。」
・ニカイア信経または原ニケア信条とも言う。
 アリウス派を排斥した第1ニカイア公会議(325年)において採択された。
 したがってニカイア信条は、公式の会議によって採択された最初の信条でもある。
 なお原ニケア信条とは、ニカイア・コンスタンティノポリス信条にニケア信条の名を用いる教派での呼称である。
 「苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。」

公の教理の学びにおいては二つの信条に基づいてイエスの昇天と再臨の解釈がなされます。
それが正統的です。
信条が根拠としているルカ福音書を含めた新約聖書は
信条成立の約100年前から250年前には初期教会において読まれ引用されていた聖典文書でありました。

今日は教理的視点とは別に、
テキストそのものから感じ取った内容をエリヤ昇天のテキストと合わせて述べることにいたしました。
・ルカ24:45−49の記述から
 十字架の出来事の深い意味を悟らせようとするイエスの熱い切実な思いが感じ取れます。
 その言葉の直後に弟子たちをエルサレムから5キロほど離れたベタニア付近に連れて行って、
 そこで弟子たちを祝福しながら、天に上げられてゆかれました。
 そのイエスの昇天の様を弟子たちは目撃して伏し拝んだ、とあります。

この箇所ではエリシャがエリヤの昇天を目撃したように、弟子たちがイエスの昇天を目撃しております。
イエスはこの出来事を目撃させることによって「心の目」を開かれたのです。
あるいは弟子たちの「心の目」を開いて昇天を見せたとも言えましょう。
前後関係ではなく同時にとも言えましょう。
なぜわざわざ「心の目」なんでしょうか。
それは理性と考察ではたどり着けない領域の意味を分からせること、
さらに肉眼では見えない領域を見させることであったのです。
ここでイエス昇天の場面に限って言及するならば、
弟子たちは自分の眼で昇天を見るのですが、それは普通に肉眼で見るのとは異なっていたのです。
仮にベタニアの人たちがその場に通り合わせてイエスの昇天を見て
「お前たちの先生が天に上がっているぞ!!」
と叫びだす場面ではありません。
ここまで導かれ従ってきた弟子たちだけが目撃出来たのです。

私はそうした領域があるのだと思います。
複数の特定の人には見える神の出来事や領域があるのだと言えます。
見過ごせば見過ごし、気のせいにしてしまう事柄を、
その人たちにとっては決定的なサインであり、出来事を目撃する体験があるのです。
それは宗教が包含している世界です。
キリスト教は我々を倫理の世界へと押出しますがその本質は宗教の本質にその人達を招き入れるのです。
そしてイエス昇天後の地上の宣教活動へ押し出す時期を世界史の中に創設なさったのです。
そのカギとしてイエスの
「見ることを得よ!」
があり、ご自身の昇天を見せたのです。
私もまた云う!
ややもすると見逃しがちな状況の中で、あなた自身が神からのメッセージを見よ! と。

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