≪メッセージの要旨≫  2019年   6月 23日   聖霊降臨後第2主日     


        
聖書 : ルカによる福音書       7章 11〜17節

        
説教 :  『 若者を母親に与えた 』   木下 海龍 牧師


1、 今日のルカ福音書は証言しております。
 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、
大預言者が我々の間に現れた
と言い、また、
神はその民を心にかけてくださった
と言った。(7:16)
人々はイエスではなく神を賛美したのです。
それは神がアブラハムとの約束を果たして大預言者を送ってくださったからです。
人々がイエスの深い同情心を目の当たりにしたこと、
若者よ起きなさい。
と、死者を呼び戻す力を目撃したからです。
それは救いをもたらすために神が自分たちを訪れてくださったのだと。
このイエスを神の子・メシヤであると観たのです。
だから13節で
主はこの母親を見て
と表記しているのです。
ここでの「主」は、ご主人様のそれではなく、旧約で告白されている「主! ヤハウエ」のことなのです。

2、 我々が信じているイエスはこうした死人を生き返らせた奇跡の業から見て、
     約束の成就、神の子、我々の救主であることに何の迷いもないのだと、語り継がれて参りました。
 イエスがやもめである母親とその一人息子の葬列に出会ったこと。
人が遭遇する人生の悲しみの極みにイエスは深く同情を示して、その悲しみに自ら歩み寄って、
その独り息子を生かして、一旦は失ってしまった独り息子をイエスの手からその母親に渡した出来事を語っています。
同じく、われわれの死においてもイエスは救い主であり、贖い主であられます!!


ここからさらにもう少し視点を広げて思索してみましょう。
・「放蕩息子」の中で
「『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』」(ルカ15:24) 
32節にも同じ言葉が繰り返されています。
ルカ福音書全体の主要な主題の一つが「死んでいたのに生き返る」内容だと思います。
これまでの一般的な解釈では、
この父親は神様であられる親神として放蕩息子でも愛してやまない譬えとして語られて参りました。
それは福音的には正しいのです。
他方、親神と言うくくりを外して単純に人の子の父親の姿として素直に見直してみますと、
「死んでいたのに生き返った!」
と言う自分の中の新たな発見と気づきに至った姿でもあるのです。
「ああ!自分は見捨てられず、生きているのだ!!」
と言う自己発見的な感動です!
・日々刻刻生き返って生きる在り方を課題にして
     人生を考えなおして行く姿としてとらえてゆくのも意義があるのではないでしょうか。
・俳人 上田五千石のことばを借りるならば、
     「いま、ここ、われ、感動、命が揺さぶられる」。
  これは今、我、個人への聖霊の働きに気付くことにも言えております。
教会歴に従えば聖霊降臨後の日々を我々は生きているのです。
聖霊降臨後とはペンテコステに聖霊が降って来て、そして去って行かれた事の記念を表すのではなく、
今ここに我と共に聖霊様(聖神)が一緒に活動していたもうことを表現しているのであります。

3、 他方われわれの身に、人生の伴侶が亡くなり、息子や娘が自分より先に亡くなった時に、
     我々が信じているイエスに願えば生き返らせて下さるとは現実的には考えてはいない。
だが今日の福音書が我々にとっても福音である、と受け取れるためには、
どこを捕えて、何を語れば良いのでしょうか。
思考の方向性を模索してみます。


 6月初めに神様からいただいたと思っている、上田五千石の「NHK俳句入門 生きることをうたう」から
幾つかの箇所を引用しながら心に残った言葉を紹介します。
ここで私は俳句を殊更に奨励しているのではありません。
偶然なことから私自身が感動して感受したことを説教で語る助けになったと思っているかです。

「自分を中心に、宇宙の全てがいきいきしはじめた」
「神様にいただいた大切なものを自分の中にもっている以上、
     なんとしても、自分自身を自ら守っていかなくてはならないと気づいたのです。」p18
「『ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな  村上鬼城』 
     眼前の『桜』といまだかってなき出会いをもったからハッとしたのであり、
     現実のありふれた『桜』の中に、現実を超えた『桜』の在り様を見出して、“感動”しているのであります。
     そして、その時“われ生きてあり”という自分の“いのち”を作者は、鋭く確認しているのであります。
     それが、句作の喜びというものであります。」

「『眼前』に生きる俳句の在り方は“いま”“ここ”にいのちの灯をはっしと見定めつつ生きるということであります。
     ここには老い、という観念の入る余地がないのであります」。
     俳句は私にとって永遠の青春なるものにほかなりません。p28
「感動とは『いま』『ここ』に『われ』をゆさぶり、生きて在ることを確認させるものであります。
     俳句くらい、この感動そのものを端的につかまえようとする詩型はありません。
     俳句の短さが、生き、生かされるのは、この感動の直接的把握、瞬間的感受にあります。
     古人はこれを「眼前」とか「即興」と言っています。」p42
上田五千石のこれらの文章の 「俳句」 というところを
「キリスト者で在る事」 と置き換えて読むことも出来るのではないかと思いながら
私は読み続けて心躍る体験をしました。

聖霊の働きとはまさに“いま”“ここ”に生きる命の揺さぶりそのものなのであります!!
その聖霊様に導かれて教会歴を旅する今、
ここで聖霊降臨後第2主日の礼拝に招かれ讃美しているのであります。
上田五千石 「私の中の自然を大切にすることを知った」 p18
芭蕉 「よく見ればなずな花咲く垣根かな」
大いなる力に生かされていると気づき感動してますね。
大いなる力によって生かされている自分に気付いた、
これが感動であり、身近に偏在する聖霊(聖神)の働きであるのです。
聖霊の働きを受けて人は「キリスト者」に新生し、
さらに聖霊の働きを受けて自分は「キリスト者」であると想起し続けるのです。
「天の父よ。天のお父様!」 と素直に、照れずに、自然に祈っている自分に気付くならば、
それは聖霊があなたに働きかけたゆえであります。
天の父とあなたを結び付けた聖霊様の架け橋に因るのです。

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