≪メッセージの要旨≫  2019年   6月 9日   聖霊降臨祭(ペンテコステ)     


        
聖書 : 使徒言行録       2章  1〜21節

        
説教 :  『 聖霊を体験するとは 』   木下 海龍 牧師


 ペンテコステの日です。
牧師になってから、数十回目かのペンテコステです。
わたしは、洗礼を受けた後も分からなかったのは、聖霊ということでした。
十字架の意味とか、そういうことはいろいろ分かりましたけれども、
最終的に、十字架の出来事はわたしのためだと思えば、納得はいったわけです。
しかし、聖霊は、いろいろな人が、いろいろなこと言うから、よく分かりませんでした。
結論的には、わたしが今は信じているという、
この事態の中に聖霊の働きがあると、それなしには、わたしは、信じられなかったし、
それなしに、六十年も信仰生活はできなかったのでしょうし、というふうに後づけ的に思って、
それは、聖霊の働きによるほかにないのだと、そう受け止めています。
それは同時に、皆さま方にとっても同じことが言えるのではないでしょうか。

 今日は、ペンテコステですね。
ペンテコステっていうのは、実は、大変なことなのですね。
集団的に聖霊が降ったということです。
今、わたし、時々、会うクリスチャンで、聖霊体験をしたという人がいます。
ああ、これ本物だなぁと思いました。
聖霊体験をしたのは本当だなあと。
初めの頃に会うと聞くのです。
いつ起こったか、どういう変化があなたに起こったのかと。
そういう意味で、個人的にそういう体験、ある特異な体験があるということは分かるのですけれど、
集団で起こるということは私は聞いていないのです。
使徒言行録のこの場面一回だけです。
ユダヤ教の五十日祭に、今で言うペンテコステが起こったのです。
これに似た場面は前週に言いましたが、エリヤ昇天とイエスの昇天の場面があるだけです。

 この場面は、計算の推理はいろいろですが私は三十人以上の人が見たと思います。
今日のペンテコステも、僕の計算だと、三十人前後の人ですね。
イエスさまの弟子の名前が詳しく書いてあります。
十一人のユダ以外の名前が全部書いてあるのですね。
そして、マリアの名前が書いてあって、イエスの兄弟の五、六人のことが書いてあるのです。
ガリラヤから従ってきた弟子たちのこと、女の弟子のことも書いてあるし、あるいは、
マティアともう一人の人が選ばれる時の、イエスさまと一緒に行動した人たちも居たというから三十人ぐらいですね。
二階の部屋だから、当時、二階の部屋に集まるようなところは、
百二十人と使徒言行録1:15にありますがそれだけの人が入る部屋はおそらく急には借りられなかっただろうし。
百二十人集まって総会を開催したのです。
彼らは、死んだユダの代わりに誰を選ぶか、人事の問題です。
総会常議員欠員の補欠選挙をするわけです。
総会人事の選任のために総会を開くのです。
ペトロが立って、ユダの代わりに誰を選びましょうか、といって、二人の人を候補にあげて、くじで選ぶのです。
祈って、くじを引いて、マティアを選出したのです。
宗教教団にとって、人事は非常に大事なことですので、選ぶのです。

でも、この聖霊降臨が起こった時にはね、
寝泊まりする二階に上がったのだから、三十人ぐらいではないかと思います。
ペトロのほかに、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマスとか、名前が書いてあるのです。
イエスの兄弟が皆ついてきているのです。
女の弟子もついてきたのです。
だから、三十人ぐらいがこの体験をするのです。
この人たちは、
ガリラヤからイエスがその過ぎ越しの祭りにもずっと参加した人たち、イエスの傍にいる人たちだったから、
イエスさまが昇天する時も、
十一人だけではなくて、みんなが集まっている前に、イエスさまは、昇天されたのです。
ガリラヤから従ってきた彼らはその目で見たのです。
これが、宗教的な事柄としては、非常に重要なことなのです。

一つはね、集中力が問題になっているのでしょう。
何事かをしながら片手間に獲得できる事柄ではないということです。
この箇所の説教ではある時期まではね、弟子たちの集中力だと思って行っていましたね。
どの宗教団体も、集中力というのは求められるのです。
理性と悟性を超えて集中する領域っていうのは、どの教会、どの宗派でも、求められます。
キリスト教もそうだし、仏教でもそうです。
そうでないと、最後の瞬間は、見届けられない。

 昇天の出来事や、ペンテコステの出来事というのは、
普通一般的にわれわれが五感で、見る、聞く、そういう事柄というだけではなくて、
一瞬にある人に神の領域を見せてそこに招き入れてしまう出来事だと思うのです。
ペンテコステ体験とは、普通は個人が体験する。
今、わたしの胸に聖霊が降って、元気に説教ができるように、宣教活動ができるようにというふうに、
個人的な願いの成就としての聖霊体験を願っているのです。

 ところが、ペンテコステというのは、そうではなくて、
みんなが、みんなの上に、炎のようなものが降って、炎、舌ベラのような炎が降ったのですよ。
みんなにですよ。
男も女も、マリアもいたし、女の弟子たちもいた。
境遇が違うのですよ。
教育のある人もいるし、教育のない人もいる。
それぞれが、非常に違う、いろんな人が、それがそこで一つになっている。
そして、同時に、聖霊が炎のように降ったのは、教会史の中で、ここが一回だけじゃないかなと思う。
そして、一同を一つにするのです。

そして、何が起こったか。
騒ぎを聞きつけた人たちが
「なんだ、彼らは酒に酔っているのではないか」
と言うものですら、ペトロは、憤慨して、怒ってね、そうではないと、弁明し、説教するのす。
イエスの十字架と復活の出来事を宣べ伝えるのです。
この時の彼らがおかれた状況としては、身を潜めて隠れて生活してなきゃ危険だと思い詰めていた彼らが、
この時の聖霊体験によって街頭に出て行って伝道を始めたのです。
そこに聖霊降臨のペンテコステの大きな真の働きがあると思います。
出ていって、キリストの十字架と復活を宣べ伝えた。
それは目の前にいるユダヤの皆さんのためだと。
さらに日本の人々のためにと繋がっていくのです。

そうしますとね、今ここに十数人の人たちがいる、そして、時には三十人ぐらいになる。
そうしますとね、その当時のあわせ鏡のように、彼らが、さまざまな境遇の人たちが一つになるように、
聖霊が降って、教会が始まったように、
今、わたしたちは、境遇も状況も、男と女の違いとか、職業が違うそういう皆さん方が一つになって、
日曜日の礼拝を守るように、集められているっていうのは、これは稀有な出来事なのですね。

日曜日の朝、ちょっと、寝坊しないで起きて、そして、一枚着替えて、身支度をして、そして、この教会に来る。
他の人は、教団の教会に行くかもしれないし、熱心な人は、天理教に行くかもしれない。
あるいは、野球に行くかもしれない。
サッカーに行くかもしれない。
いろんな人がいるのですよ。
その中で、この教会を選んで、先週も、今週も、それを年中継続して続けていることの背後にはねぇ、
この時の、聖霊体験をした弟子たちが一丸となってイエスの十字架と復活をあかしする信仰の群れになった、
その群れのこちら側の鏡みたいな、
存在としてわたしたちの主の日ごとの礼拝は評価されて認められているのです。
そうでなければ、このことは続かない。
これは聖霊の導きなしには起こらない出来事であります。

過去の音声メッセージに戻る