≪メッセージの要旨≫  2019年   7月 21日   聖霊降臨後第6主日     


   
     聖書 : ルカによる福音書       10章 25〜37節

        
説教 :  『 善いサマリア人 』   木下 海龍 牧師


この譬えが語られた状況から考察を始めましょう!
なぜ「良い」と命名したか→たぶん「良い羊飼い」の言説からでしょう。
サマリア人への固定観念の転換が「永遠の命」と繋がり、血筋に寄らない信仰を!
ルカ10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
           「先生、何をしたら、『永遠の命』を受け継ぐことができるでしょうか。」

当時、この質問をすれば必ず相手が困って行き詰まるか、
イエスとニコデモの対話のようにどちらかが、くちごもってしまう内容でした。
「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」※1
※1「天の国」 マタイ32回、  マルコ 0回、  ルカ 0回、  ヨハネ 0回
   「神の国」     5回、      14回、     43回、      2回
   「永遠の命」    3回、       2回、      3回、     16回
福音書編集者は、イエスが語った内容を時代と対象と教団が置かれた状況の中で、
その時の「今」に最も響く言葉に置き換えて述べていると考えていいでしょう。

今日の聖書箇所では、彼らは本気で永遠の命を求めての問いではありません。
イエスを困らせようとしてイエスを試すための問いかけでありました。
イエスが何かを答えればその言葉についてさらに追及する準備をしていたに違いありません。
イエスはその問いを受けて逆に問いかけます。
 「律法には何と書いてあるか。 あなたはそれをどう読んでいるか」と。
彼らは答えた
 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、
    また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 
彼らは分かっているのです、
律法の書の専門家ですから、文献上何が書いてあるかはすらすらと述べることができるのです。
問題は分かっているのであるならばそれを実践する。
イエスは言われた。
 「正しい答えだ。それを実行しなさい。 そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、
       「では、わたしの隣人とはだれですか」
      と言い返したので、それを受けてイエスはこの譬えをなさったのです。
律法に関してどんなに詳細に分かっていてもそれだけでは「永遠の命」からは程遠いのです。
一方、同じく旅をしていた名もないサマリア人は倒れている人の傍を通って
 「その人を見て憐れに思い近寄って、
    当座の傷の手当てをして、自分が乗っていたロバに乗せ、宿屋に連れて行って介護したのです。
    翌日になるとデナリオン二枚を宿の主人に渡して、
    「この人を介抱してください。費用がもっと掛かったら、帰りがけに払います。」と。」
イエスは問う
 「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と。
律法の専門家は言った。
 「その人を助けた人です。」と。
そこで、イエスは言われた。
 「行って、あなたも同じようにしなさい。」と。
律法の専門家とイエスとの「永遠の命」論争の決着です。
律法の専門家が「だれが私の隣人であるのか」と言って本質をそらします。
イエスは「あなたが倒れている人の隣人になりなさい」と。
「永遠の命」はある種の実体ではなく、
他者と自分との間に自覚された関係性が立ち現れてくる今、ここに実感されるものなのです。
文献的な知識では「永遠の命」には至りえない!
 「その人を見て憐れに思い,近寄って、傷の手当てをした」 
憐れに思う気持が沸き上がり、驚き、心が波立ち、自分のことのように共感。
これらが一つの塊として立ち起こってくる、それに押し出されて、近づき手当てをする行動に至る。
言葉を並べればこんな風になるのだが、
実はこれは一連の一つのこととして、このサマリヤアの人は当然のように行ったのです。
・倒れていたのは誰れなのか→律法を果たせずに道端にうずくまっているユダヤ人
                   (同じく果たせえないでいる私自身、
               さらに空疎な事柄や物に時間と命のエネルギーを費やして疲れ切っている私たち自身)
にイエスは見て憐れに思い近寄って、そこからの回復の介抱をしてくださっているお姿でもあります。
まず初めに、このたとえ話が言いたい本当の処を隠した形で語っている譬えであると言えましょう。

「憐れに思う」と言う動詞は新約聖書には12回使われており、その用例は共観福音書に限られております。
そのうち、たとえ話に三度現れます。
(赦されたのに赦さない僕のたとえ、放蕩息子の譬え(放蕩息子の父親、僕の主人)、
これらは神が人間に抱く思いを述べて「憐れに思う」と表現されております。
たとえ話以外の箇所で、
この動詞の用例は助けを求めて苦悩する人に奇跡で応える場合のイエスの思いを表すときに限られております。
(ナインの寡の一人息子の野辺の送りの場面、『主はこの母親を見てみて、憐れに思い』と記されてあります。)

これらの用例から推し量られるのは、イエスがまず私の隣人になってくださったのであります。
神の愛は対象を定義し限定しようとはしない。
ただ困窮している状況を見ておられるのです。
それで、主の愛を受けた者も、隣人を限定的に定義しようとはせずに、その人のおかれた状態をそのままに見る。
見る自分がその人の隣人になろうとする。
(一人では難しければ仲間を募って、最初から完全にできるかどうかを案じることなく、
   倒れた人を見て憐れに思い、近寄って、傷口の手当てをする。そうゆう行為です。)
いやしくも「永遠の命」がテーマになっているところでは、思索が行き着くところで得られる領域ではなく、
自分の生命が別の生命に共感する一瞬の世界(領域)に在るのではないか。
その一瞬はその後にも平凡で変わらない生活が続くとしても、実はその生活を下支えしてくれているのです。
人生の多くは中断された人生ではあるのだが、その制約の中で出来ることは何か。
運命を共にする連れ合いも含めて、
旅の途中に出会い、どちらかが看取り、さらに残された人生を生きて行かざるを得ません。
それでも→「永遠の命」→憐れに思って近寄るところに
「命のリアリティ」を一瞬にして受け取る今、ここ、に現成するのです。
日常の全てに「命のリアリティ」を見て感得するのです。

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