≪メッセージの要旨≫  2019年   7月 28日   聖霊降臨後第7主日     


        
聖書 : ルカによる福音書       10章 38〜42節

        
説教 :  『 必要なことはただ一つ 』   秋久 潤 牧師
                                      (日本福音ルーテル小鹿教会清水教会牧師)


本日の福音書では、
マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」 と言われています。
マリアという名は、「愛されている」という意味があります。
反対にマルタという名は「女主人」という意味です。
家庭を切り盛りする女性だったのでしょう。
マリアは愛されていることを知っており、おっとりとした性格でした。
そのため、マルタが忙しく立ち働いても頓着せず、主の足もとに座っていることができたのです。
マリアはそのような意味で、憎めない、愛される存在であったと言えるでしょう。
ところが、マルタがイエスに文句を言います。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と。
マルタはマリアに直接言わず、イエスに言います。イエスが自分を認めてくれないことに不満を覚えているようです。
なぜマルタはマリアに直接言わないのでしょうか。
マリアを放置しているイエスに文句を言うのはどうしてでしょうか。
それは、マルタが家を切り盛りする女主人だからでしょう。
マルタはイエスがこの場の主であることを了解しており、だからこそ、
イエスがこの場の主として相応しく家全体を動かしてくれないことに不満を覚えているのです。
これは、よく気がつく人の陥るところです。

気がつく人は、自分が気がついたことを自分のことのように担おうとします。
それゆえ、多くのことを気に掛けて、混乱してしまうことも起こります。
あれもこれもしなければならないことがあると気づくと、私がしなければと引き受けてしまいます。
一つのことをしていても、別のことが気になり、それゆえに、気がつかない他の人に腹が立ちます。
しかし、マリアは主の足もとに座って、主の話を聞いています。
マリアをその場で叱りつける訳にはいかず、主が気付いてくださらないかと気にしながら、働いていました。
そのマリアへの思いが膨れあがり、たまらずイエスに言います。
「何ともお思いになりませんか」と。
マルタが言いたいのは次のようなことでしょう。
「ご覧ください。マリアは、あなたの足もとに座って、あなたの話を聞き続けています。
   動こうとしないのです。
   どうして、気にしてくださらないのですか。
   あなたはお優しい方だと伺っています。
   小さな人たちのことを守るお方であると伺っています。
   それなのに、わたしのことは気にしてくださらないのですか。
   マリアが座っていることを放置しているのはなぜですか」と。

それに対して、イエスはマルタの思いを汲んで応えます。
「マルタ、マルタ」と二度呼びかけていますが、これは愛情の表現であり、愛おしさの表現です。
イエスはマルタを愛しています。
だから、マルタが多くの奉仕をして、心がバラバラになっていることに気づいています。
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」とイエスは言います。
思い悩むと訳されている言葉は、空の鳥、野の花を注意深く学びなさいとおっしゃった言葉の中に出てきます。
思い悩むという言葉は、断片的に思い起こすという意味です。
つまり、総合的に考えることができないということです。
断片的な対処ばかりで、総合できないので、対症療法しか行うことができません。
それゆえに、あれもこれもと多くのことによって心をかき乱されてしまいます。
そのような状態になったとき、人間はイライラしてしまうものです。
落ち着きがなく、何をしても不満ばかりが残り、他者を批判したり疑心暗鬼に陥ってしまいます。
そのように心を乱され、バラバラにされていたマルタが、イエスに注目します。
イエスがことばを語っていることに注目するのです。
そこにおいて、マルタはイエスという一つのこと、一人のお方に引き寄せられているのです。
マリアもイエスに引き寄せられています。
こうして、マリアもマルタもイエスにおいて一つとなっているのです。

マルタがマリアを批判せず、イエスに言ったのは、イエスに引き寄せられたからです。
マリアもマルタの労苦に気づかなかったのはイエスのことばに引き寄せられたからです。
こうして、イエスにおいて、イエスに向かうことにおいて、一つになっています。
そこでは、キリストがすべてを総合するお方です。

イエスはさらに言います。
 「しかし、必要なことはただ一つだけである。
    マリアはよい方を選んだ。
    それを取り上げてはならない
」 と。
良い方を選んだと言われると、マルタが選んだのは悪い方なのかと考えてしまうものです。
しかし、マルタは全部を抱えているのであり、選べてはいないのです。
マルタは多くを断片的に考えています。
しかし、マリアは一つのことしかしていません。
というより、一つのことしかできません。
それがマリアの選びなのです。

私たち人間は、誰であってもすべてを行うことはできません。
私たちが行いうることは、一つのことだけです。
そして、今必要なことは一つしかありません。
能力のある人は、多くのことを行うでしょう。
しかし、多くできるがゆえに、心も多くのことに散り散りにさせられてしまいます。
本来、私たち人間は、ひとときに一つのことしかできないのです。
そして、それで良いのです。
明日のことを思い悩んで、今を生きられなくなるということが、イエスが思い悩むなと教えられた言葉でした。
同じように、私たちには一つであることが必要なのです。
同時に多くの奉仕を行うことはできません。
私たちは人間であって、神ではないのですから。
それゆえに、マルタが一つを選び得ないことが彼女の心が乱される原因でした。
そしてマルタは、マリアが今しかできないことを選んでいるのを取り上げることはできないのです。

しかし、マルタはこの混乱の中で、イエスを選びました。
イエスに問いかけました。
イエスのことばを聞きました。
彼女が混乱していたことも、良いものを選ぶ結果となりました。
この世で最も良きものであるイエスをマルタは選んだのです。
私たちが今日聞いているイエスのことばは、マルタに与えられた恵みです。
マルタによって、私たちに与えられた恵みのことばです。
マルタが心乱されたことも、良きものを選ぶきっかけとなりました。
良きものを他者にもたらすきっかけにです。
これは不思議なことです。
マルタは常日頃、文句ばかり言っていたわけではないでしょう。
このとき、イライラしていただけです。
しかしイエスは、彼女の罪深く見える主への文句を、愛する者を慈しむように受け取って、語ってくださいます。
このお方は、マルタを叱っているのではありません。
マルタを愛しています。
ご自分に問いかけ、求めるマルタを愛しています。
この世でたった一つの良いものであるキリストの意志を求めたマリアは、幸いです。
そのように求めるところへと導かれたマリアは、幸いです。

もちろん、マリアはマリアで良いものを選んでいます。
イエスというお方を良きものとして選んでいます。
しかし、マルタもマリアも実はイエスによって選ばれているのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書15章16節でイエスが言うように、イエスが彼女たちを選んだのです。
とはいえ、選ばれたがゆえに、マリアはイエスの足もとに座し、マルタはイエスに求めます。
それぞれに選ばれた者が、選んだお方と、選んだお方のことばとを求めたのです。
二人の姉妹は、キリストにおいて一つとなっています。
それぞれにキリストに向かうことにおいて、キリストが彼女たちを一つとしています。
それぞれを生かしつつ、総合するお方キリストが彼らの間におられます。
マルタの不満もキリストによって良きものとされていきます。
キリストが、すべてを一つとする良きお方です。

キリストの説教が語り出される十字架は、マルタとマリアの間に立っています。
おっとりとした座るマリアと、女主人として立ち働くマルタ、二人の人間の姿を一つとするキリストがおられます。
私たちはいかなる人間であっても、キリストにあって恵みを与えられます。
働く者も座す者も、共にキリストによる一つを生きるのです。
キリストを求めているならば、すべては良きものとなるからです。
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